【資料②】新潟教区創立100周年記念誌

教区創立までの宣教

1868(明治元)年~1912(大正元)年新潟宣教の始まり

 1858(安政5)年にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスなど5か国と結ばれた日本修好通商条約によって、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)、兵庫(神戸)を順次開港したが、新潟は信濃川の河口港のために土砂の堆積がひどくて水深が浅く、外国船が沖に停泊して船荷の積み降ろしに艀を使わなければならないという不便などのために、開港は条約締結後10年もたった1868(明治元)年11月19日であった。

 当時日本の宣教司牧は、教皇庁からパリ外国宣教会(パリミッション会)だけに委託されていて、全国が一つの代牧区で、プチジャン (Petijean) 司教が横浜で統括していた。

 プチジャン司教は宣教師がいままで一度も訪れたことのない新潟の町の状況を調査するように、パリ外国宣教会の函館教会主任アルンブリュステル(Armbruster)神父に命じた。

 「天主教の新潟渡来とその伝播」(二瓶武爾著、佐久間書店、1942年刊)によれば、司教の命を受けたアルンブリュステル神父は1870(明治3)年の元旦にイギリスの帆前船に便乗して出航したが、真冬の日本海の荒波に一度は新潟港外の砂浜に乗り上げもし、1月8日に全員無事に上陸することができた。

 1月13日に新潟からプチジャン司教に宛てた神父の手紙から当時の新潟の状況を知ることができる。

 『(前略) 新潟に着いて私と従者は4日の後、河畔の小さな家を借りて住みました。私は毎朝英国領事館に通って、ミサをささげます。新潟は越後の国にあり、大きな美しい河に面していて、その河口から1、2リュー(1リューは約4キロ)離れたところにあります。

 河口はいつも危険ですが、冬には殆ど入航できないほどです。にもかかわらず、新潟は一つの非常に重要な地点であります。町は立派に整っていて、たくさんの堀が縦横に通じ、広くて賑わっていて、日本の西海岸での一大中心地であります。

 ヨーロッパ人の居留者もいますが、ほんの数か月前からで、その数はまだあまり多くありません。(中略)

 周辺の地域は非常に肥沃で、人口が多いです。昔は、新潟にも越後の諸地方にもキリスト信者がいましたが、その数は多くありませんでした。

 もし司教様が近いうちに新潟に教会を設立なさるお考えなら、私はそれに適した場所にある土地を探しましょう。

 私の考えでは、新潟の冬は函館よりも寒くないのですが、不快です。私が到着してから毎日風、雨、雪、あられの日が続いています。しかし、それは大したことではありません。大切なのは、霊魂を救わなければならないということです。もちろんどこでも同じように、新潟においても成すべきことがあります。

 神がこの地に殉教者の血の肥やしを新たに施して、生命の実を豊かに実らせてくださるように希望しましょう。』

 宣教師の派遣はすぐに実現できず、アルンブリュステル神父はその後横浜の日本司教区いのちに転任し、廃藩置県で禄を失った青年たちに対する宣教に努める使命を受けて働いた。

エヴラール神父の宣教

 1871(明治4)年の春に3年ほど前から函館教会で助任として働いていたエヴラール(Everard) 神父が宣教の使命を受けて新潟へ着任した。

 新潟に上陸はしたが当時は外国人に対する不信感が根強く誰ひとりとして外国人に家を貸す人がなくて困惑したと書き残している。

 開港後になってもこの頃の新潟には居留地が設けられていないことで、外国人はあまり居留しなかったようであるが、「在留外国人遊歩規程」が設けられていて、奉行所(役所)から遊歩は各方向へおよそ10里(40キロ)を限ると定められ、旅行についても外国人は旅行免状(旅行免許証)を持ち歩かなければならず、外国人の宿泊についても規則で届出が定められていた。

 しかし1897(明治30)年7月17日の条約改正の実施によって外国人居留地は撤廃され、外国人遊歩規程も消滅した。

 翌1873(明治6)年来日したフォーリー神父は、横浜から転任してエヴラール神父の助任として日本語の学習を始めた。エヴラール神父は日本語の学習に励んだ結果、やがて難しい漢字もかなり自由に読み書きができるようになり、明治7年頃にはエヴラール神父のところにフランス語を習いに来る青年達が多くなり、その2年位前から青年の1人が発刊した月刊の北湊新聞が木版刷りなのを見て、活版刷りにするように勧めて神父は横浜から活字を取り寄せる援助をし、こうして発行されたのが新潟県最初の日刊新聞「新潟毎日新聞」であるという。

 また平民宰相といわれ総理大臣として大正期の政界で活躍したが1921(大正10) 年東京駅頭で一青年の凶刃にたおれた原敬も青年の一時期をエヴラール神父のもとで書生として2年間ほど働き、神父の日本語学習を助けるかたわらフランス語の学習に努めたことと、神父が旅行免状を得た後、原敬の案内で陸路長岡・東京・福島を経て原の故郷の盛岡へ旅して生家で一週間滞在し、盛岡を中心に青森まで出向いて宣教に従事し、11人に洗礼を授けたことを、すぐれた歴史的資料である《原敬日記》全えヴ10巻の第1巻「帰省日記」に書いている。    

 神父は新潟では多くの受洗者を得ないうちに横浜に転任したが、新潟でのエヴラール神父の活動がその後の宣教活動の基礎となった。

ドルワール・ド・レゼー神父の宣教

 1875(明治8)年の9月にエヴラール神父が横浜へ転任すると、1873年にパリ外国宣教会から日本へ派遣された11人の宣教師の一人として来日し、東京番町教会と神田教会で2年間働き、その間、東京伝道学校(ラテン学校)の外国人教師を務めていたドルワール・ド・レゼー(Drouarl de Lézey) 神父が着任した。乗物などのない時代のこと、東京から歩いて上州渋川から沼田、三国峠を越えて苦労を重ねての7日掛かりの赴任であったという。

 神父はすぐ宣教活動を始めたが新潟では外国人宣教師には恐怖的好奇心を示す者ばかりで、真剣に教理を学ぼうと訪ねて来る者はいなかった。

 当時外国人は異人さんなどと呼ばれて好奇心で珍しそうに見られ、子供たちは「異人が来た。異人が来た。」と叫んで家を飛び出てドルワール神父を見物しているふうであったという。しもた屋であるが「天主公教会」の門標を出して宣教の端緒をつかもうといろいろ努めたが、誤解や偏見でなかなか成功しなかったようであった。

 翌年頃から神父は伝道士と一緒に新潟周辺に出向いて宣教に取り組み、座敷を借りて伝道士に布教講演会を開催させて宣教に恵念した。

 宣教活動は決して順調ではなく、世間から「ヤソ教」と呼ばれて嫌われて講演に集まる人もよほどの勇気がなければならかったが、神父は伝道士の協力を得て新潟周辺の農村や佐渡の宣教にも着手して多くの人に教えを説き、1879年の秋に甲府へ転任するまでの4年ほどの間に229人に洗礼を授けたことが洗礼台帳に記録されている。

 ドルワール神父が佐渡の宣教を始めたのは1878(明治11)年頃からであるが、翌年の春に地元の有力者の協力を得て現在の佐渡教会用地の借受けに成功し、宣教の集会所になる佐渡で最初の西洋館を建て翌年までは助任をしていたパランシェ(Balanche)神父が滞在したが、1883(明治16)年4月23日近所からの出火で西洋館は焼失。その後の佐渡宣教を担当したド・ノアイ (De Noailles) 神父によって焼け跡に1887(明治20)年佐渡教会が献堂され、9月8日オズーフ (Ozouf) 司教によって盛大な献堂式を挙行した。聖堂名は聖スザンナ(日本海側で現存する最古の木造の天主堂)で、ことし125年を迎えた。

秋田宣教の始まり

 秋田教会の受洗第1号は大和田キヨスケで1884(明治17)年1月6日、盛岡を中心に働いていたパリ外国宣教会のベルリオーズ神父(後に司教)から受洗となっているから、それ以前からすでに秋田にも宣教師たちの巡回宣教がおこなわれていたのであろう。

 パリ外国宣教会の宣教師として新潟、佐渡、鶴岡、酒田、秋田、青森など東北地方への巡回宣教を命じられたツルペン (Tulpin)神父が秋田の元佐竹藩の家老宅を購入して、その翌々年1879 (明治12) 年に秋田宣教の拠点とした。

山形、庄内の宣教の始まり

 鶴岡教会発展の年譜によれば庄内の宣教はツルペン神父が1879(明治12)年、鶴岡で民家を借りて鶴岡、酒田の巡回宣教を始めたという。

 ツルペン神父の次に宣教に従事したダリベル (Dalibert) 神父は鶴岡に16年間にわたって鶴岡を中心に庄内地方の宣教に力を尽くし、熱心な信者グループを作り上げた。現鶴岡教会の土地は元酒井藩の家老屋敷跡だそうでダリベル神父が購入して、教会堂の設計を宣教師のパピノ (Papinot) 神父(パリ外国宣教会員)に依頼し、1903(明治36)年10月11日に献堂式が行われた。国の重要文化財であるロマネスク様式の美しい聖堂である。

 山形も1880(明治13)年頃からパリ外国宣教会の宣教師たちの仙台からの巡回宣教が続いたが、1900(明治33)年に新潟、秋田、鶴岡、青森などの教会を歴任したマトン(Matton)神父によって、山形市七日町に「山形天主公教会」として創立され、明治39年からのダリベル神父時代に聖堂建設用地として香澄町に土地を購入するなど教会の基礎がつくられた。

宣教体制の変遷

 新潟、佐渡を中心に宣教に専念していたドルワール・ド・レゼー神父は、新潟教会の将来のためにもっと大きな土地を入手したいとつとめていたが、1882(明治15)年8月28日に東大畑町の現在地1600坪を50年の契約で借りることに成功した。神父はこの時すでに教会付属の小学校の建設を考えていたようであって、新たに入手した土地に間口7間、奥行き10間のかなり大きな聖堂の建設と教会付属の明道小学校の開校に着手した。

 この聖堂落成の日時は確かめる資料がないので定かではないが、1885年9月頃から新潟教会の洗礼台帳に「聖母御誕生の聖堂で荘厳に授洗」という記載がたびたび見られるところから、献堂式は1885(明治18)年9月8日、聖マリア誕生の祝日でなかっただろうかと思われる。

 1885(明治18)年9月、ドルワール神父は仙台教会主任となり、仙台教会主任であったル・マレシャル(Le. Marchal)神父が新潟教会の主任となった。

 ル・マレシャル神父がまず着手したのはフランスシャルトル聖パウロ修道女会を招致して教育事業や慈善事業をおこす仕事であった。

 1879(明治12)年に来日し、函館で女学校、児童養護施設、診療所などを経営しているこの修道女会を新潟へ招く計画は、すでにドルワール神父によって進められていたが、なぜか実現に手間取っていた。

 しかし1886(明治19)年春には仮修道院が完成し4人の修道女が在住していて、まず施薬院と児童養護施設を設けて社会事業に従事する準備も終わり、更に教育事業の明道尋常高等小学校も開校した。なかでもシスター・マリー・アスパズィー(明治25年盛岡へ移り、大正元年東京で帰天)の施すフランスの薬で眼病の快復が続出して修道女たちの施薬院は次第に有名になった。

 翌1887(明治20) 年9月4日(日曜日)オズーフ司教は午前中に新潟の聖堂で9人の洗礼式と18人の堅信式を執行し、午後は教会付属の明道小学校(尋常小学は4年制・高等小学は2年制)の開校式を執行した。

 翌年明治21年にル・マレシャル神父が横浜へ転任してルコント (Lecomte) 神父が新潟教会の主任に着任すると50年契約で借地していた教会用地(現在の新潟教会の敷地) 1600坪を買い取り登記した。

 神父たちが宣教のてだてを得たいと考えた明道小学校で開催された講演会も外国語の講習も、かなりの参加者であったがこの人たちは語学などの習得には熱心であっても、キリスト教に対してはほとんど無関心であったと神父を嘆かせた。 

 新潟のシャルトル聖パウロ修道女会のシスターたちは事業を発展させるために懸命に働いた。そしてその事業がようやく軌道に乗りかけてきたとき、1894(明治27)年に日清戦争が勃発したため、その発展にブレーキがかけられてしまった。

 明治24年頃から次第に国粋主義的ナショナリズムが拡がって日清戦争終了直後のロシア、フランス、ドイツの三国干渉による遼東半島の返還事件、その後の1904 (明治37)年の日露戦争の頃から根強い外国人排斥運動が起きて宣教師の働きは次第に困難になってきた。

 これに加えて1908(明治41)年9月4日の新潟大火で、聖堂をはじめシャルトル聖パウロ会の修道院、学校などの施設の全てが焼失し、そのために聖パウロ会では新潟から東京神田猿楽町の仏英高等学校(現在の白百合大学の前身)に引き揚げてしまったので新潟教会にとって大きな打撃となった。

函館司教区の創立

 1891(明治24)年4月17日に北日本代牧区が東京司教区と函館司教区に二分されて函館司教区(代牧区)が創立され、北海道と東北6県と新潟県は函館教区の管轄となった。

 初代教区長のアレキサンドル・ベルリオーズ (Balioz) 司教は、新潟や東京小石川などで18年間宣教に従事したルコント神父を1892(明治25) 年函館元町教会へ転任させてルコント神父の協力を得て、函館近郊の当別にトラピスト修道院を誘致することに成功した。

 1896(明治29)年、ドン、マリ、ベルナールをはじめとする8人の修道士たちが函館に着き、ルコント神父の案内で依頼してあった当別の新築した仮修道院に入った。新修道院は岬にある葛登支燈台にちなんで「灯台の聖母修道院」と命名された。日本における厳律シトー会(トラピスト)が発足した。

 ルコント神父が新潟に残した足跡と、厳律シトー会の当別トラピスト修道院の創立、更に2年後の湯の川トラピスチン修道院の創立などの功績はながく記憶さるべきものだろう。(北日本カトリック教会史の人物補遺抜粋)

新潟・山形・秋田の3県を神言修道会に委託

 1907(明治40)年に教区長であったベルリオーズ司教は函館司教区から新潟、山形、秋田の3県を神言修道会に委託した。

 当時の函館司教区ではその管轄区域があまりにも広大なために、少ない司祭では充分な宣教司牧活動ができなかったので、ベルリオーズ司教は1905(明治38)年末にローマ訪問のおり、翌年に神言修道会の創立者アーノルド・ヤンセン師を訪ねて話し合った結果、同会に秋田、山形、新潟の3県を委託することの暫定契約を進めることに合意したといわれている。

 神言会では1907(明治40)年にウェイグ(Weig)、チェスカ (Ceska)、ゲルハルド(Cerhards) 神父3人を秋田に派遣し、元佐竹藩の家老の屋敷だったところを仮修道院として、日本語を学びながら宣教活動の第一歩として外国語の講習をはじめた。

 1908(明治41)年に聖霊奉侍布教修道女会のピア(Pia) 修道女ほか5人のシスターが秋田に住居を定め、まず幼稚園を開設し、更に1909(明治42)年にウェイグ神父によって創立された女子職業学校の経営を引き受けたが、1923(大正12)年に聖霊女学院と改称して学校経営に着手した。

 1908年1月に再度新潟を訪れたウェイグ神父は新潟に男子のカトリック学校を設立するために新潟教会のマリオン (Marion) 神父に交渉を依頼して旭町2番町の土地1500坪を買うことができた。同じ年の5月23日にこの土地に伝道士養成の学校設立の許可が伝えられると工事が始まり、8月末頃にはレンガの煙突のある洋風の窓に彩色の美しい洋風建築が完成した。信徒も近所の市民の人たちも「山の教会」と呼んだ。(双塔昭和11年4月号から抜粋)

 同年8月21日に秋田を出発したチェスカ神父とゲルハルド神父の2人も新潟へ赴任してきたが、汽車で新潟への赴任を好まなかった。なぜかと言うと当時は羽越線も上越線もまだ無く、上野発で長野経由の信越線は1905(明治38)年5月に開通はしたものの所要時間は夜行列車で17時間20分かかったからである。

 2人は秋田から日本海沿いに鶴岡まできて、鶴岡で2、3日滞在した後、チェスカ神父は鶴岡近くの三瀬港から船で新潟に向かったが、体力に自信のあったゲルハルド神父は自転車をとばして鶴岡から新潟まで1日で着いたという。

 その年、1908(明治41)年の新潟市街の様子は3月8日に街の中心から出火した大火で1998戸を焼失し、名物の一つであった信濃川に架かる1886(明治19)年架橋の万代橋(木橋)が焼け落ちて、信濃川を船で渡らなければならなかった。

 2人の神父が新潟へ着いた数日後の9月4日午前1時過ぎの出火は、春の大火に焼け残った37か町にひろがり、2,122戸を全焼して1885(明治18)年ドルワール・ド・レゼー神父時代に建てられた木造平屋建の聖堂(現聖堂の前身)も、敷地内の明道小学校々舎も寄宿舎もシャルトル聖パウロ修道女会の修道院もすべて焼けてしまったが、完成したばかりの「山の教会」は幸いに類焼をまぬがれた。

 新潟大火後、この「山の教会」は焼け出された教会関係者や近所の人たちの救護所となり、神父たちも「山の教会」に一緒に住んで宣教に従事した。

 新潟大火で教会が焼失し、秋田から2人の宣教師が新潟へ赴任した頃、東京大司教区の管轄であった北陸地方の富山、石川、福井3県の宣教司牧は1909(明治42)年には神言会に委譲されていたので、神言会はその年の秋に金沢教会で働いていたフランツ・フリーゼ神父を高田へ派遣した。金沢を出発したフリーゼ神父は200キロほどの道を、しかも「親知らず子知らず」の難所を越えて、自転車で高田にたどりつき宣教を始めた。1909年、高田教会の創立である。その頃、新潟県には新潟と佐渡の2つの教会しかなかった。

新潟教区の創立

 1873(明治6)年2月24日の禁教令廃止で各宣教修道会の来日、再来日による宣教活動によって宣教司牧範囲が広域になってきたために、1890(明治23)年第1回全国教会々議(長崎シノドス)が長崎大浦天主堂で開かれ、将来の教区の再編成の方向が確認されて、日本に4司教区(東京・函館・大阪・長崎)制がしかれ、日本の再編が始まった。

 1912(大正元)年8月13日に、当時函館司教区の一部であった秋田・山形・新潟の3県と、東京大司教の一部であった富山・石川・福井の3県を加えて新たに新潟使徒座知牧区(新潟教区)が創立されて、初代教区長にライネルス(Reiners) 師が任命された。

教区の年譜

初代教区長 ヨゼフ・ライネルス

1912(大正元)年~1926(大正15)年

1945年8月28日帰天

主な、エピソード

*新潟使徒座知牧区が創立した初代教区長ヨゼフ・ライネルス神父の時代の1912(大正元)年頃は、政府の管轄は神道・仏教は内務省に、キリスト教などの宗教団体は内務省から文部省に移されて、時代は少しずつナショナリズム(国家主義)が台頭し始めていたし、1914(大正3)年7月28日には、第1次世界大戦(7月28日)が勃発し、更にその年の東北地方は未曾有の大飢饉に苦しんだ。各教会が全力で救援したことは云うまでもない。

 そんな中にあっても新潟県の長岡地方や秋田県の毛馬内、小坂、鹿角など未開拓地域の宣教が始っていたし、1916年6月には東京で公教(カトリック)青年会の発会があり、5年後の1921 (大正10)年には公教青年会報が発刊されて、1946年には青年会報はカトリック新聞と改題され、全国レベルの広報活動へと発展した。

*1922(大正11)年の2月18日に名古屋使徒座知牧区(名古屋教区)の創立があり、初代教区長にヨゼフ・ライネルス神父が新潟教区長と兼任された。(新潟教区から富山、石川、福井3県が名古屋教区に移った。)

*1923(大正12)年9月1日の関東大震災は死者行方不明者が14万人、家屋の全壊焼失70万戸と報じられて多くの教会、修道院等も被災したが、復興の意欲は盛んで、青年の意気は高まった時代であった。

*1926(大正15)年6月28日、第2代新潟教区長に新潟教会主任司祭のアントン・チェスカ神父が任命された。

第2代教区長 アントン・チェスカ師

1926(大正15)年~1941(昭和16)年

1951年4月29日帰天

 主なエピソード

*1926(大正15)年10月24日、チェスカ教区長を迎えて着任したばかりのフィンゲル神父(第6代主任司祭)とともに山形教会の献堂式があった。

 山形の宣教着手は1900(明治33)年、創立が1902年だが、聖堂の建設は第2代主任司祭のダリベル神父の計画から20年後の第5代主任司祭のフリーゼ神父によって着手された感謝と喜びの献堂式であった。(現聖堂は2010年更に耐震工事を施した。)

*第2代新潟教区長に任命されたチェスカ神父は、1885年の新潟大火で焼失した新潟教会の再建にはかねてから教区の中心となる新聖堂を考えていたので早速建設の実現をすすめた。設計者はスイスのジュネーブ国際会議場などを設計して名を知られて日本に滞在していたドイツ人技師マックス・ヒンデルである。

 1927(昭和2)年9月18日に駐日教皇大使マリオ・ジャルディーニ大司教を迎えて献堂式を挙行した。

 しかし教会は間もなく試練の時代に入る。1937(昭和12)年7月7日の日華事変の勃発。国家総動員法施行。1939(昭和14)年9月1日のドイツがポーランドへ進攻した第2次世界大戦勃発。1940(昭和15)年10月の在日外国人宣教師に対する引揚げ勧告。11月の聖母の騎士誌廃刊など。国内の思想、言論統制は一層強化された。

*1941(昭和16)年には外国人宣教師の活動は制限され、外国人教区長などの教会指導者は退任されて全国の各教区長を邦人司祭と交替させられ、教会本来の宣教活動は全く停止の状態になった。

*このような政治情勢のために1941年1月4日、チェスカ教区長は退任して後任に松岡孫四郎神父が新潟教区長と名古屋教区長兼任で就任した。

 チェスカ教区長は晩年はおもに名古屋の神言神学院に起居し、最後まで宣教活動と神学生養成に尽して、1951(昭和26)年4月29日、名古屋の神学院で帰天された。チェスカ教区長は、日本と日本人を愛し、特に邦人司祭の養成に強い関心を寄せ、信徒の霊性と宗教的生活深化を目的とした各種の著書、特に有名な祈祷書「祈りの園」(教養社昭和元年刊)によって貢献された。

第3代教区長 ペトロ 松岡孫四郎師

1941(昭和16)年~1953(昭和28)年

1980年8月6日 帰天

主なエピソード

*太平洋戦争の勃発から教会の戦後の躍進した時代の12年間はいろいろなことがあった。1945年8月までの4年間は、司祭の行動が束縛されますます宣教活動を困難にし、司祭の経済的生活まで脅かすこともあった。

*1942(昭和17)年以降は憲兵や警察関係からの干渉も多くなり、戦争が激化するに従って外国人宣教師は外出まで制限された。新発田教会では軍隊の町であったために何もできず昭和20年までは閉鎖されるに至った。高田教会のサウエルボン神父は、教えの説明が誤解されて昭和19年4月に特高警察に連行され新潟拘置所に勾留された。

*1945(昭和20)年8月1日に長岡市は米空軍機による大空襲で、長岡教会は幸いにも戦渦をまぬかれたが、市街の8割に当る約1万1千戸が焼失した。

* 1944(昭和19) 年頃から空襲が激化して、東京、名古屋、大阪、神戸、福岡、鹿児島、仙台などの各地の教会、修道院、学校病院などの施設も被災、焼失が続いた。

* 1945(昭和20)年8月6日の広島市の原爆被災では教会や修道院も被災し、広島市民の死者は14万人を超えたと伝えられた。8月9日の長崎市の原爆被災は7万4千人の市民の生命を一瞬に奪い、7万6千人が深い傷を負った。

*終戦の日、1945(昭和20)年8月15日。聖母の被昇天の祭日。恵みの平和の朝が思い出される。

 その後の8年間みんなが一生懸命になった教区の宣教躍進の時代を振り返えってみよう。

*1945(昭和20)年2月15日に休刊に追い込まれた「カトリック新聞」は翌21年2月10日に復刊して、戦後の宣教が再開された。

 新潟県青海町では早速30人近い信者が祭日には集まって、信者の家でミサを献げ、教会建設の機運が盛りあがった。糸魚川教会の草創期である。

 見附でも昭和21年に戦争で中断していた教理研究会を信者宅で再開して、巡回ミサを献げたとの記録がある。

 *1947(昭和22)年頃から三条でも村松でも借地に在日米軍払い下げの「かまぼこ型兵舎」を移築して聖堂建設の足音が聞こえ始めた。

 その頃の宣教は職場や地域社会の人々に「教会に来てください」と呼びかけて、その人たちを教会に連れてくること、信者になるように見守り工夫することが特徴であった。職場にも中学高校にもカトリック研究会ができた。みんなが福音の種を蒔き、小さな共同体が育ち、祈りの場、交わりの場の必要から教会が建てられ、終戦後の数年だけでも糸魚川(1946年)。三条(1948年)。村松(1948年)。柏崎(1919年)。沼垂(花園)(1951年) 教会などが献堂を祝った。

*1949(昭和24)年は聖フランシスコ・ザビエルの来日400年記念に当ったので奇跡のザビエルの右腕(聖人の遺物)の日本巡礼が行われ、仙台から新潟教区へ通って山形、秋田、鶴岡、新潟の順に通り、山形では鐘楼の鐘を鳴して戦後最初の鐘の音で歓迎したと報じられた。

 7月8日午後6時に新潟駅に到着した聖腕を奉持したオープンカーを先頭に新潟教会までの大通りを松明や十字の旗を手にしたおよそ1000人の信者達の大行進が続き、大合唱に守られて聖堂に安置された。翌日は三条、長岡を廻り、次の日は新潟医大(当時)のグラウンドの特設祭壇で記念ミサを献げて信者や市民2000人余で次の巡回地の富山へ見送った。日本は聖ザビエルの手で初めて福音の種が蒔かれたが、400年後この聖腕で再び種蒔きがされたことになった。

*1952(昭和27)年11月2日新潟では献堂25周年記念ミサを駐日教皇大使マクシミリアン・ド・フルステンベルグ大司教の司式で献げて盛大に祝った。

 この年は、日本と教皇庁との外交関係が再開(1月23日)した年であった。

第4代教区長 洗礼者ヨハネ 野田時助師

1953(昭和28)年~1961(昭和36)年

1961年10月11日 帰天

主なエピソード

*1953(昭和28)年3月13日、札幌出身で東京カトリック神学院の前身大神学校長・上智大学教授の洗礼者ヨハネ野田時助神父が新潟教区長に任命され、5月24日に就任した。

*1954(昭和29)年8月15日、聖堂脇の前庭にルルドの聖母洞窟が完成した。この洞窟は教皇ピオ12世によって定められた「聖母の年」(1854年)無原罪の信仰宣言100周年を記念して建設されたものであった。

*この年、9月24日に横手教会は創立25周年記念ミサを献げ、高田教会から独立した直江津・青海教会が創立した。

*1956(昭和31)年3月1日、長岡地区は神言会からフランシスコ会ボロニア管区が宣教司牧事業を継承した。

*1957(昭和32)年、終戦直後から準備を進めていた大館教会が献堂を祝った。

*1958(昭和33)年11月23日、能代教会献堂式。

*1959(昭和34)年11月11日、本荘教会献堂式。

*1960(昭和35)年9月1日、亀田町本町で(前)亀田教会が献堂。

*1961(昭和36)年10月11日、洗礼者ヨハネ野田時助教区長は病気のために帰天された。在位は8年間、第4代教区長として教区の発展に献身された。享年66歳であった。

*この年、10月29日高田教会は創立50周年記念ミサを献げた。また見附教会は三条教会から独立して小教区を創立させた。

第5代教区長 使徒ヨハネ 伊藤庄治郎司教

1962年6月14日新潟教区初代司教

1962(昭和37)年~1985(昭和60)年

1993年3月13日 帰天

主なエピソード

*1962(昭和37)年5月5日、4月16日付で新潟教区(知牧区)が司教区に昇格したとの通知があった。

 その初代司教に横浜山手教会主任司祭の使徒ヨハネ伊藤庄治郎神父(秋田県出身)が任命され、6月14日新潟司教座聖堂において駐日教皇大使ドミニコ・エンリッチ大司教によって叙階された。

*1956年以降長岡地区の宣教司牧事業を委ねていたフランシスコ会ボロニア管区は、1962年長岡市表町に教会と修道院を完成させた。表町教会の設立であった。この年の11月11日には第2バチカン公会議が始まる。

*1963(昭和38)年3月24日、町田正新神父叙階

*1964(昭和39)年、第2バチカン公会議(1962~1965年)によって教会憲章をはじめ多くの教令が発布された。

*1964(昭和39)年3月20日、高厳修新神父叙階

*この年5月5日、妙高教会は妙高町田口に聖堂を建て、同年5月10日秋田県の土崎教会の献堂式があった。

*またこの年、6月16日に発生した新潟地震でカテドラルも地盤陥没のために、双塔の鐘枠部分が約30センチ程度沈む被災で、祭壇から入口に向って勾配がつく傾き状態であった。

*1966(昭和41)年7月10日、伊藤幸三郎新神父・山田恵尚新神父叙階

*1966(昭和41) 年11月31日、1日本建築家協会大賞に選ばれたレーモンドバの設計による新発田教会(新聖堂)の献堂式があった。

*1967(昭和42)年、加茂、十日町、酒田各教会の献堂式があった。

*1968(昭和43)年4月29日、上越五智に高田教会から独立した直江津教会の献堂式があった。

*1969(昭和44)年7月5日、三崎良次新神父叙階

*1971(昭和46)年4月、相川教会聖堂が落成し祝別した。

*その年(昭和46)7月1日、新潟市内の寺尾教会と青山教会はそれぞれ小教区として設立された。

*1971(昭和46)年9月24日、真壁良雄新神父叙階

*同年12月12日、教区開発基金制度(のちの教区共済基金制度)が発足した。

*1972(昭和47)年、新津教会、栃尾教会の献堂式があった。

*この年9月23日、教区創立60周年を祝い、教区信徒大会(清心高校)を開催した。

*1974(昭和49)年6月30日、寺尾教会は献堂を祝った。この年、糸魚川教会の献堂式があった。

*1975(昭和50)年9月8日、神言修道会創立100周年記念大会が開催(秋田)された。

*この年9月14日、教区信徒大会(新潟)を開催。

*1975(昭和50)年10月10日、川崎久雄新神父叙階

*1977(昭和52)年9月18日、カテドラル献堂50周年記念ミサを献げ、教区信徒大会を開催した。

*1979(昭和54)年3月、見附教会が献堂。

*1979(昭和54)年3月25日、山頭泰種新神父叙階

*この年9月23日、教区信徒大会(新潟)を開催した。

*同年10月10日、長井教会が献堂。

*この年、鶴岡教会天主堂が国指定重要文化財に指定される。

* 1980(昭和55)年10月19日、横手教会は創立50周年記念ミサを献げる。

*この年11月2日に鳥屋野教会、11月3日に米沢教会の新聖堂献堂式を献げる。

* 1981(昭和56)年2月23日、教皇ヨハネ・パウロ2世訪日。2月24日、教皇ミサ(後楽園スタジアム)。

*同年8月15日、教皇訪日を記念してカテドラルに小聖堂を建てて聖マリアのご保護にささげた。

*この年9月6日、白根教会献堂式。

*1982(昭和57)年9月、大館教会は献堂25周年記念ミサ。同年10月10日教区信徒大会(新潟)開催。

*1983(昭和58)年4月18日、青山教会の献堂式。8月14日、柏崎教会の新聖堂献堂式。同年、鶴岡教会は献堂80周年記念ミサを献げる。

*1984(昭和59)年3月20日、佐藤允広新神父叙階

第6代教区長 フランシスコ 佐藤敬一司教

1985年6月9日新潟教区第2代司教

1985(昭和60)年~2004 (平成16)年

2005年1月2日帰天

主なエピソード

*1985(昭和60)年6月9日、フランシスコ佐藤敬一司教叙階式が新潟清心女子高等学校講堂で荘厳に行われた。駐日教皇大使ウィリアム・A・カルー大司教、白柳誠一東京大司教はじめ日本全教区からの司教が叙階式を執り行い、講堂を埋め尽くした1500人を超えた司祭、修道者、信徒が祈りを共にした。

* 1987(昭和62)年9月13日、両津教会(のちの佐渡教会)は献堂100周年記念ミサを献げた。この年9月20日に土崎教会は創立30周年記念ミサを献げた。

* 1988(昭和63)年9月25日、佐渡キリシタン塚殉教地完工祝別ミサが、駐日教皇大使ウィリアム・A・カルー大司教、東京教区長白柳誠一大司教を迎えて佐藤敬一新潟教区長司式で献げた。東京、新潟から多数の信者が参加した。

*その年の10月9日、教区信徒大会(にいがたナイス88)を開催(清心高校講堂)した。

*1990(平成2)年4月30日、大瀧浩一新神父叙階

* 1992(平成4)年11月23日、酒田教会は献堂25周年記念ミサを献げた。

*1993(平成5)年3月13日、体調を崩して聖園病院に入院されていた伊藤庄治郎司教は、3月13日に容態が急変して午後6時48分急逝された。享年84歳であった。佐藤司教司式の通夜、葬儀ミサ告別式に各教区の司教と聖堂いっぱいの司祭・信徒たちは、故教区初代司教を偲んで永遠の安息を祈った。

*この年の8月18日~22日、新潟三越デパートの大ホールで「世界の大聖書展」を開催した。聖書展はカトリック、プロテスタント両教会合同の新潟聖書展実行委員会(委員長佐藤敬一司教)が主催し、会期中の来場者は延べ4000人を超えた。

* 1994(平成6)年9月、本荘教会は創立25周年記念ミサを献げた。

* 1995(平成7)年3月21日、石黒見泰新神父叙階

* 1996(平成8)年11月24日、カテドラルの改修工事が完了して、佐藤敬一司教司式、10数人の司祭共祭で感謝ミサを献げた。1964(昭和39)年6月の新潟地震で被災して応急工事が施されたままのカテドラルは、32年後での本格改修ということになり、1927(昭和2)年の献堂から70年ぶりの改修工事であった。

*1998(平成10)年6月7日、花園教会の新聖堂献堂式。同年10月24日には村松教会が献堂50周年記念ミサを献げた。

*2000(平成12)年10月9日、山形教会は創立100周年記念ミサを献げた。

*2001 (平成13)年9月24日、寺尾教会は創立30周年記念ミサ。

*2004 (平成16)年5月5日、三森泰三神父は司祭叙階60周年感謝ミサを献げた。

*この年5月14日、教皇ヨハネ・パウロ2世は佐藤敬一司教の新潟教区長辞任の願い(定年退任)を受理し、後任の新潟教区長には神言修道会の菊地功師を任命された。

第7代教区長 タルチシオ 菊地功司教

2004年9月20日

新潟教区第3代司教2004 (平成16)年~2017(平成29)年

主なエピソード

*2004(平成16)年9月20日、新潟清心女子中学高等学校講堂で岡田武夫大司教主司式により、駐日教皇大使エムブローズ・デ・パオリ大司教と国内外の司教をはじめ教区内外の司祭・修道者・信徒、更に国際カリタスの海外デスクなど1000人を超す参列者で新司教の誕生を祝った。叙階式の中で新司教は「福音を広く伝えるために、その基礎となる福音に生かされた教会共同体づくり、教区づくりを目指す」と決意を述べて、参列者から感激の拍手が上がった。

*前新潟教区長の佐藤敬一司教が2005 (平成17)年1月2日、午前9時44分、札幌市の天使病院で腎不全のために帰天された。76歳であった。新潟カテドラルでの葬儀ミサは新潟教区長菊地功司教主司式、白柳誠一枢機卿、岡田武夫大司教、池長潤大司教、高見三明大司教、教皇大使代理カレンガ参事官ほか11人の司教教区内外からの司祭と信徒400人が列席して、佐藤敬一司教の永遠の安息を祈った。

* 2005(平成17)年4月29日、高橋学新神父叙階

* 2005 (平成17)年5月3日、新妙高教会(雪の聖母教会)献堂式。*2005(平成17)年9月23日、教区信徒大会(鶴岡)を開催した。

*この年、11月3日、神言会司祭オスワルド・ミューラ神父(能代教会主任)は司祭叙階50周年を迎えて秋田教会で記念ミサを献げた。菊地功司教、神言会日本管区長ロバート・キサラ神父をはじめ秋田県内外から300人近い人々と共に献げた盛大な金祝ミサであった。

*2007(平成19)年4月22日、亀田教会は新聖堂の献堂を祝った。この教会は50年程前の1960(昭和35)年に小教区として創立した。当時240坪程の分譲地を購入して総べて信者の積立で一棟の聖堂と司祭館を建てて献堂を祝った。しかもその後も移転や建て替えをくり返しながらも信者達は更に積立金を蓄え続けて、木造の聖堂だが鐘楼から鐘の音を響かせている。

*この年2007 (平成19)年4月30日、第1回目となる記念すべき教区宣教司牧評議会が開催された。昨年5月4日にこの評議会の設立に向けての準備会議を開いて以来1年かけて協議を重ねていたもので、今後は教区の福音宣教における優先課題を明確にして取組んでいくことになる。

*同年10月13日、大館教会は創立50周年の記念ミサを献げた。

*2007(平成19)年11月3日、教皇大使アルベルト・ポッターリ・デ・カスッテロ大司教を迎えて、新潟カテドラルは献堂80周年の記念ミサを献げた。

*2008(平成20)年9月14日、第17回目となる新潟教区信徒大会(秋田聖霊短大)を開催。司祭・修道者も含め300人程が参加した。テーマは「殉教者を学ぶ」講師は溝部脩司教。

*2008 (平成20)年11月24日、ペトロ岐部と187殉教者列福式(長崎)。列福式には山形県米沢盆地の北山原で殉教した甘糟右衛門をはじめとする53人の米沢の殉教者が含まれている。

*2009 (平成21)年5月6日、坂本耕太郎新神父叙階

*2009 (平成21)年5月16日、山形県北山原の殉教地で、米沢殉教者列福感謝ミサを捧げた。菊地功司教司式、教皇大使アルベルト・ボッターリ大司教、平賀仙台司教、谷さいたま司教の共同司式で、教区内外から900人を超える司祭・修道者・信徒が参列した。

*2009(平成21)年8月1日、第10回カトリック障害者連盟(カ障連)の全国大会が新潟市総合福祉会館で開催され、全国から250人を超えるカ障連会員とサポーターが集った。教区の信徒たち多数がボランティアに駆けつけた。

*2009 (平成21)年9月24日、秋田教会は創立125周年を迎えた。1884年1月6日にパリ外国宣教会の宣教師によって第1号の洗礼が授けられ、その後1907年から神言会が宣教司牧の担当となって現在に至っている。

*2009(平成21)年10月3日、上越市にある高田教会は創立100周年を祝い、記念ミサを献げた。菊地功司教司式で、教皇大使アルベルト・ボッターリ大司教、フランシスコ会の長谷川管区長、神言会のダシオ副管区長他大勢の司祭、信徒が参加して450人を超えた。

*2009 (平成21)年10月18日、秋田県の南部由利本荘市にある本荘教会が、創立50周年を迎えて感謝ミサを献げた。小さな共同体だが、お祝いのために駈け付けた80人を超えた程の参加者で聖堂は一杯になった。

*2009 (平成21)年11月3日、10月11日にバチカンで列聖されたイエズス・マリアの聖心会司祭、聖ダミアン・デ・ブースターの列聖感謝ミサが山形地区の寒河江で献げられ、山形県内から300人近い信徒たちが参加した。神への信仰に裏打ちされた真の隣人愛を人生をかけて具体化したダミアン神父の取り次ぎを求めながら、真の隣人愛に生きるものになれるように共に祈りをささげた。

*2010 (平成22)年7月25日、高田教会主任司祭のフランシスコ会員タルチシオ・マリオ・カンドウッチ師が司祭叙階50周年を迎えて、フランシスコ会や教区で働く司祭が高田教会に集まって共同司式の感謝ミサを献げた。300人を超す信者が参加した。

*2010 (平成22)年10月28日、山形県新庄に教会が誕生した。献堂式には20人近い司祭団と聖堂に入りきれない程の人が集まった。中国・韓国・フィリピンの人たちはこの地に住んで20年以上も努力して、生活基盤を築いてきた人たちで、待ち続けた夢が叶うときの喜びを全員で分かち合った日となった。

*2011 (平成23)年3月15日、菊地司教は司祭叙階25周年を迎えて、静修を終えた教区司祭団と一緒に小聖堂で感謝ミサを献げて、3月11日に発生した東日本大震災で被災された方々のために祈りを捧げた。

* 2011 (平成23)年5月15日に三条教会は新聖堂の献堂式を献げた。三条教会は1948(昭和23)年に米軍の「かまぼこ型兵舎」をもらい受けた聖堂で創立したが、移転後は幼稚園の2階部分が臨時の聖堂になってから10年計画の努力が実り新聖堂の喜びの日を迎えた。

*この年、11月3日、花園教会が創立60周年の記念ミサを献げた。花園教会(沼垂教会を改称)は1953(昭和28)年に新潟教会から独立した最初の小教区で、都市計画で現在地に移転。新潟市の東部地域が宣教基盤になっている。