【資料①】新潟カトリック教会百年の歩み

“双塔” 特集号 (117号)

– 聖堂献堂 50周年を祝して –

1977.9.18(日) 新潟カトリック教会 編 

第一部 新潟教区宣教小史 (1972)

✚教区発展略年譜

  • 1846年(弘化3年)3月27日、日本教区(代牧区 vicariatus apostolicus)設立。 
    • 初代教区長:フォルカード司教(Theodore A. Forcade MEP, 在任1846~1852)。 
    • 第2代教区長:コラン神父(Charles E. Collin MEP, 在任1852~1854)。 
    • 日本布教長:リボア神父(Napoleon Libois MEP,在任1854~1858)。 
    • 日本布教長:ジラール神父(Prudence S. Girard MEP,在任1858~1866)。 
    • 第3代教区長:プティジャン司教 (Bernard Th. Petitjean MEP, 在任1867~1884)。 
  • 1876年(明治9年)5月22日、日本南緯教区(代牧区、本部は長崎)と日本北緯教区(代牧区、本部は東京)設立。日本北緯教区は、越前、美濃、尾張を含むそれ以北の諸地方を担当。 
    • 日本南緯教区長には、プティジャン司教留任。
    •  初代日本北緯教区長:オズーフ司教(Pierre M. Osouf MEP, 在任1876~1906)。 
  • 1888年(明治21年)3月20日、日本中緯教区(代牧区、本部は大阪)設立。近畿、中国、 
  • 四国地方を管轄。
    • 初代教区長:ミドン司教 (Félix Midon MEP, 在任1888~1893)。 
  • 1891年(明治24年)4月17日、函館教区(代牧区)設立。北海道、東北6県ならびに新潟県を担当。
    • 初代教区長:ベルリオス司教(Alexandre Berlioz MEP, 在任1891~1927)。
  • 1891年6月15日、以上の4教区のうち3つは、長崎教区、大阪教区、函館教区の名称で司教区(dioecesis)に、残りの1つは、東京教区の名称で(archidioecesis)に昇格。 
  • 1904年(明治37年)1月27日、四国教区(知牧区 praefectura apostolica)設立。スペイン人ドミニコ会宣教師に委譲される。 
    • 初代教区長:アルヴァレス神父(Jose Alvarez OP,在任1904~1931)。
  • 1912年(大正元年)8月13日、新潟教区(知牧区)設立。北陸3県と新潟、山形、秋田県とを担当。 
    • 初代教区長:ライネルス神父(Joseph Reiners SVD,在任1912~1926)。
  • 1915年(大正4年)2月12日、札幌教区(知牧区)設立。渡島半島を除く北海道全島と 
  • 千島群島、日本領樺太を担当。 
    • 初代教区長:キノルト神父(Joseph Wenceslaus Kinold OFM,在任1915~1941)。
  • 1922年(大正11年)2月18日、名古屋教区(知牧区)設立。愛知、岐阜県と北陸3県とを担当。この時より、新潟教区は今日の規模になる。
    • 初代教区長:ライネルス神父(在任1922~1940)。

(以下略す) 

附記 – 

  • 1926(大正15)年 チェスカ神父 新潟教区長に就任。 
  • 1940(昭和16)年 松岡孫四郎名古屋教長 新潟教区長を兼任。
  • 1953(昭和28)年 野田時助神父 新潟教区長に就任(1961年歿) 
  • 1962(昭和37)年 伊藤正治郎神父 新潟司教に任命される。 

(三森記) 

✚新潟教区宣教小史

 長い鎖国の夢さめて、ペルーの率いる艦隊に威圧された日本が、嘉永7年(1854) 3月、日米和親条約(神奈川条約)によって、アメリカ船に下田と函館への寄港を許すと、 ロシアと英国の艦隊も来日して、同様の和親条約を結ばせ、オランダとフランスも、これにならった。こうして、日本は、安政5年(1858)の夏から秋にかけて、上記の列強諸国との修好条約をも次々と締結し、翌年の夏に、まず神奈川、函館、長崎を、慶応3年12月 (1868年1月)には兵庫を、外国人のために開港した。まもなく各開港場には、 外国商人と共に、キリスト教各派の宣教師も来日し、聖堂を建設したり、ひそかに日本人に対する伝道を始めたりした。徳川幕府が崩壊し、維新政府が西洋文明の導入に積極 的に取り組むようになると、キリスト教宣教師も、伝道活動をなしくずしに国内諸地方へ広めた。それは、地方の官憲または住民団体からの要請に基づいてなされた伝道では なく、多くの場合、いわば、中央政府からの一般的許可や容認をくさびにして、個々の 宣教師が、保守的な地方社会の中へ割り込んで行なった活動であった。そこに、仏教伝来の場合とはかなり性質の異なる無理があり、その当然の結果として生じる宣教師の苦労や、宣教師の熱意に動かされて改宗した信者の、地域社会の中での悩みも、生やさしいものではなかった。 

 本稿は、このようにして始められたカトリック布教が、新潟、山形、秋田の3県で、 その後どのようにして発展して今日に至ったかを概観することを目的とする。新潟教区は、 大正元年に創立された当初、上記3県のほか、富山、石川、福井3県の布教事業をも担当しており、大正11年になってはじめて、現在の規模に落ち着いたのであるが、ここでは、北陸3県の布教史については取り扱わない。明治10年代の前半に山形県令として活躍した鹿児島藩出身の三島通庸(みちつね)氏は、山形県民の性格を、 

「民情素朴、能力命令ヲ遵奉シ、施政容易ノ方ニ属ス」 (誉田・横山共著「山形県の歴史」、p.236)

と評しているが、これは今日でもなお、新潟、山形、秋田3県の出身者について、ある程度一般的に言うことのできる県民性であると思う。しかし、この県民性の裏には、人的で個性を強くあらわすことをきらい、いつも地域社会の大衆と共に、あるいはだれか有能な指導者に属して行動しようと努めがちな性格のあることも、見のがしてはならな い。これらの地方の出身者が、地域社会のためになる事業や、自分が身をささげた事業ためには、一身上のどんな犠牲をもいとわずに協力するが、地域社会の敵とみなされる人に対しては、いかに根強く暗黙の抵抗を続けるか、場合によっては、大衆の名に隠れた集団的暴力行為をもいとわないかは、これから述べる布教史の中にも、しばしば顔をのぞかせる特徴である。 

 発行までの時間に制限があるので、不本意ではあるが、布教史を、パリー外国宣教会時代と明治末期以降の2つに大きく分け、各時代の布教を県ごとにまとめて叙述することにした。なお、諸地方の宣教師や信者で、特に特に教会創設期の布教事情を知りたい、という希望を表明する人が多いため、明治・大正期、ならびに各小教区設立期の布教に、 比較的多くの紙面をさいた。昭和初年以降の布教史については、すでに様々の小史も書 比較的多くの紙面をさいた。昭和初年以降の布教史については、すでに様々の小史も書かれていて、戦前からの信者も多数生存しており、小教区史の研究者も少なくない。それで、なるべくそのかたがたの研究にまつことにして、本稿ではごく簡単に叙述するにとどめた。参照した史料は、主として、パリー外国宣教会年報、公教万報、天主の番兵、声、 神言会布教雑誌 Steyler Missionsbote,Missionarius Japonicus, 双塔、新潟教区報、カトリック新聞、青山政徳伝道士遺稿、神言会本部保管文書、各教会保管文書、 各地の郷土資料、ならびに新潟教区の布教史と関係の深い諸種の単行本15冊ほどである。 引用した史料については、その出典を明示したが、その他の記述については、注を割愛した。後日、読者の期待にもっとよく沿う、詳細な布教史を書く予定である。なお、こ れまでに書かれた各種の記述に見られる、年月日その他の誤りも、可能なかぎり訂正し た。

 芳名を列挙する余白をもたないが、各小教区保管文書の調査や、各地の布教史談ならびに写真収集のため、積極的にご協力くださった多数の司祭、修道女、信者のかたがたに、厚く御礼申し上げたい。時間その他の都合で、収集した資料の多くは十分に利用できず、一部の協力者に対しては遺憾の情も禁じ得ない。しかし、それらの十全な利用を将来に期して、このたびは一応このような形で、布教史をまとめさせていただいた。 

✚新潟教会の歴代主任司祭

(三森記) 

 歴代主任司祭と言っても正確でないかも知れない。教会に保存されている初期からの洗礼台張L.B. に記入されている署名を年代順に集録したに過ぎない。 大体主任司祭が署名することになっているので、多分主任司祭だったろうと見做したまでである。教区事務所には最近のものを除いては、主任司祭任命の記録がないので、それを知る術がない。 

 以下の名簿は洗礼台帳に出てくる順序に従った。主任司祭と協力者が入りまじって前半はその区別が定かでない。又初期における司祭の任期もはっきりせず、特に目立って長期にわたって署名の多い場合のみ注記した。

 Aーパリー外国宣教会諧師 

  • 1876年(明治9) ドロワール・ド・レゼ (L.B. No.1 から No: 302 – (1885) まで同師の署名が多い) 
  • 〃   U.フォリー
  • 1877 A.テュルパン
  • 1878 L.シュッテ
  • 1879 ヴィグルー 
  • 〃     ムガブル
  • 1881 J. バレット 
  • J. バレット 
  • 1882 クレマン
  • 1884 ド・ノェーユ
  • 1885 J. ルマレシャル (同師の署名も多い)
  • 1886 A. コシェリー
  • 1887 Ed.ラピノ(綴り?)
  • 1888 S.プティボワ
  •     Eug. クリスマン
  • D. ルコント (1893年に至るまで、L.B.No.473からNo.1149 までの大部分が同師の署名である。)
  • 1890 Ph. ベルジェ 
  • (1874~1885 J. ラングレ) 
  • (N.B. – 洗礼台帳第2巻から聖母ご誕生教会が明記されている)
  • (1892(明治25) D. ルコント) 
  • 1892 H. アンリ・リスパル
  • (1893 Eug. クリスマン) – 1900(明治33)年 L.B. No.1293に及ぶ 
  • 1893 H. デフレン
  • 1895(明治28) R. マトン
  • 1898 アレクス(函館司教) – 7名に授洗(アレクサンドル・ベルリオズ司教) 
  • 〃  アルフレド・ウット
  • 1901 J.ブソオ 
  • 1902 マリオン
  • 1906 A.ブルトン 
  • (1909(明治45) -1912 R.マトン)(パリー外国宣教会員最後の主任司祭-神言会員が引きつぎ、この1912年に新潟教区が函館から分離した)
  • (L.B.No.1342で終る)
  • B―神言会諸師:(L.B. No.1343~2783) 
  • 1913(大正2) W. ストック(神言会士第1号受洗者佐藤アグネスさん)
  • 〃 アントニオ・チェスカ (N. B.-L.B.No.1385-1909年「聖ヨゼフ学院聖堂」が出てくる。ここで改めて L.B. No.1とし、又後で訂正して初期からの継続番号にしている。そして「新潟の町の小聖堂」が出てくる(L.B. No.1386)。 多分現在の東大畑の敷地内にできた仮聖堂のことかも知れない。 
  • L.B No.1397の終りに知牧教区長ヨゼフ・ライネルス師の台帳検閲の署名が記されている。)
  • 1927(昭和2) ヨゼフ・ディートリヒ 
  • 〃       アロイジオ・ロゼンフベル 
  • N.B.(L.B.No.1513-1927(昭和2)年10月5日モニカ佐藤ミサさんが「王であるキリストの新聖堂」における洗礼第1号で、ディートリヒ師が署名している。)
  • 1931 オイゲニオ・ファイフェル
  • 1933 カール・ライツ 
  • (N.B. 1913 年以来 1934(昭.9)年迄 A. チェスカ師が教区長兼新潟教会の主任司祭であったようで、1934年6月15日L.B. No.1692が同師の台帳最後の署名となっている。) 1934~40 ヨハネ・ポンセレット(主任)
  • 1939 A. ボルド(助任)
  • 1940~42 エメリオ・ナベルフェルト(主任) 
  • 1942-45 (昭.17) ヴィアンネ柿崎鉄郎(主任) 
  • 1945(昭.20) ヨゼフ・グュッロー
  • 1945-48 フベルト・ライニルケンス(主任)
  • 1948-49 ヨゼフ・グュツロー(主任) 
  • 1949-53 ハインリヒ・ホンナッケル (L.B.No.2253-2783)
  • C-邦人教区直轄に入る(L.B.No. 2784~) 
  • 1953 フランシスコ三森泰三一現在に至る。 
    • (N.B. 1953 (昭和28)年、6月29日付新潟教会は神言会から邦人教区司祭に譲渡される。準小教区となる。花園(当時沼垂)教会が独立する。
    • (N.B. -この間野田教区長逝去(1961.10.11)、伊藤初代司教の任命、叙階(1962.(昭和37)4-16;6-14)があり、新潟教会は司教座聖堂とな る。また、1970年1月1日付、青山教会と寺尾教会はそれぞれ分離独立教会となる。新潟教会は準小教区から正式に小教区(Paroecia) となる。1977年9月18日現在L.B.No.3476 に達す。)

 

✚第1章 パリー外国宣教会時代(明治3年~40年) 

 A 新潟・佐渡地方 明治2年の暮れ、それまで函館教会主任であったアルンプリュステル神父(Armbruster, 慶応2年9月来日)は安政5年の修好通商条約により、順次外国人に開かれた神奈川(横浜)、函館、長崎、兵庫(神戸)、新潟の5港のうち、 まだカトリック宣教師が1度も訪れたことのない新潟を視察するように、との命令をプティジャン司教から受け、翌3年の1月元日、英国の小帆船に便乗して新潟へ向かった。 それは、同神父が東京へ転任する途中での出来事であった。 

 外国船に対する新潟の開港は、諸般の準備がおくれたため、条約締結後10年もたった明治元年11月19日に、ようやく実現したばかりで、新潟に住む外国人も数名にすぎず、 当時の新潟港外国船出入港調べによると、シベリアからの季節風で海が荒れる冬期には、 外国船の出入がほとんど見られない。アルンプリュステル神父を乗せた2本マストの小帆船は、その真冬の荒波に翻ろうされながら進み、新潟港外の浜に乗りあげもしたが、 1月8日に、全員無事目的地にたどり着くことができた。1月13日、神父は、新潟からプティジャン司教にあてて、次のように書いている。 

「 (前略) 新潟に着いて、私と私の従者とは、Fabre氏のギョウヤ(代理人のこと) のもとへ行きました。4日の後、私たちは河畔のかわいい小さな家を借りて住みまし た。私は毎朝英国領事館へ通って、ごミサをささげます。新潟は越後の国にあり、大きな美しい河に面していて、その河口から1、2リュー 〔1 リューは約4キロ〕離れたところにあります。河口はいつも危険ですが、冬にはほとんど入航できないほどで あります。にもかかわらず、新潟は一つの非常に重要な地点であります。町は立派に整っており、たくさんの堀が縦横に通じ、広くて、にぎわっていて、日本の西海岸での一大商業中心地であります。ヨーロッパ人の居留人もいますが、それはほんの数月前からであり、その数も、まだそんなに多くありません。しかし、来春には、その数がかなり増加すると思われています。周辺の地域は非常に肥沃で、人口が多いです。 昔は、新潟にも越後の諸地方にも、キリスト信者がいましたが、その数は多くありませんでした。今は1人のアメリカ人牧師が、その妻と1人の未婚婦人と共にこの町に住んでいて、ルッターの福音をのべ伝えることを熱望しています。彼の本職は、官立校での英語の教授であります。彼は、その報酬として月に300ピアストルをもらい、 豪華な家に住んでいます。この地に居留している数人のヨーロッパ人は、まだ家を建てていません。彼らのうちの1人は、よい時期になったら、家を建てようと決めてい ます。もし貌下が、近いうちに新潟に1つの教会を設立なさるお考えなら、私は、それに適した有利な場所にある土地を捜しましょう。私の望みと考えから申しますと、 ここの冬は、函館よりも寒くはないとしても、不快です。私の到着以来、風、雨、雪、 あられの日が、毎日続いています。しかし、それは大したことではありません。大切なのは、霊魂を救わなければならないということです。もちろん、どこでも同じように、新潟においてもなすべきことがあります。善良な神が、この地に殉教者の血の肥やしを新たに施して、生命の実を豊かにみのらせてくださるよう、希望しましょう。」 

(“Les Missions catholiques” 1870年4月29日号より)

二瓶武爾氏の援用する大江古文書によると、神父は、はじめ新潟の大問屋鈴木長蔵氏の家でしばらく滞留した後、並木町の高田金之助氏の家に6か月間滞在したとのことであるが、しかし、明治3年の新潟港外国船出入港調べによると、同年3月3日に入港して

15日に出港した英国船ネンフ号をはじめとして、6月中旬までに13隻の外国船が出入港しており、その中には、5月3日に出港した仏国船も含まれているから、新潟視察のために来ただけなのに、6か月も滞在していたとは信じがたい。おそくとも春には、船で 横浜へ向かったのではなかろうか。前掲の書簡に、アメリカ人牧師夫妻と1人の未婚婦人とあるのは、有名なブラウン塾の創立者(明治6年横浜で)であるブラウン夫妻と、 若い婦人宣教師メリー・キッダーである。ブラウン師は、明治2年11月、新潟英語学校教師として3年間の契約で来任し、午前は学校で英語を教えたが、午後には私宅でキリ スト教伝道に努めていた。しかし、真宗信徒による迫害が激しくなり、ついに3年7月、 新潟を去った。

 明治元年以来、函館教会助任として働いていたエヴラール神父(Evrard, 慶応3年来日)は、明治4年4月1日、新潟で布教する使命を帯びて来潟した。海老沢有道氏の『維新変革期とキリスト教』に引用されている、明治4年5月16日付けの新潟宿主渡辺喜兵衛届けによると、神父は、この時、横須賀の門右衛門悴浅吉と、長崎・新大工町出身の市郎右衛門とを、従者としていたようである。しかし、新潟に上陸した当初は、だ れ1人宿を貸す人がなく、ようやく策略を用いて、片原通り四之町(今の郵便局の裏の 方で、当時片原の八間小路と言われていたところ)の米屋渡辺喜兵衛氏の2階を借りることができた。その時の模様を、喜兵衛氏の娘にあたる大江マリさんは、次のように語っている。 

「何でも父が北海道の方へ出向いている留守に、長崎の者だという人が来て、2階を貸してくれ、月10円で6か月分先払いするからというのです。そのころの10円と言え ば、大したもんですからねえ、それにその人が借りるのだと思ったので、父に無断で、 留守の者が承知してしまったんだそうです。ところが移ってこられたのは、エブラルという神父様だったんです。それを聞いた父は、切支丹に2階を貸すとはけしからんと腹を立てて、急いで北海道から帰って来たんですが、何しろ6か月分60円を受け取ってしまった後なので、追い出す訳にも行かず、6か月だけお貸しすることになったんです。」(双塔、昭和11年4月12日号)

名前の「喜兵衛」は、後年の著作物に「喜平」と書かれており、それが明治期に多く見られた改名によるのか、それとも何かの書き誤りに基づくのか不明だが、ここでは、海老沢氏の指摘する明治4年の届け書に従って、喜兵衛と書いた。渡辺喜兵衛氏は、当時北海道への米穀売りさばきにも関係していた商人だったようである。新潟人が、外国人宣教師にだれ1人宿泊所を提供しなかったということは、明治2年10月から11月にかけて起こった、外国船による北海道への救助米積み出し阻止騒動や、3年春のブラウン夫妻に対する不穏な動きなどからしても、容易にうなずくことができる。しかし、27才の 若さで函館にまで進出していた米商人渡辺氏は、この点、普通の町人よりは開けた考えをもっており、また後述するように、人を助けるためには自分の命をも惜しまないような人間であったようである。それが結局、高潔なエヴラール神父の人格をまのあたりにした時、困っている神父に、6か月間だけ宿を借す気にさせたのであろう。 

 まもなく、4月24日から25日にかけての夜に、新潟県お雇教師の英国人キング氏が、 何者かに斬りつけられたという事件が起こり、同時に、同年1月に名古屋藩の牢から脱走した浦上キリシタンの1人、市郎右衛門に対する探索の手ものびて来ていて、布教活動はほとんどできなかった。神父は、その間、家にこもって日本語の学習に専念し、1 日に16時間勉強することもあった。同年10月15日、神父は、古町通り12番町第4番地に建坪57坪5合の家を、医師田村周氏から借りることに成功した。こうして、渡辺氏との約束を守って移転できたが、移転先の家は、本明寺境内の長屋で、貧しい町並みのはずれに建っており、家の後ろは、海岸の砂山のすそになっていた。神父は、この家に住んで、なおも日本語の習得に励んだ結果、やがてむずかしい漢字も、少しずつ自由に読み書きできるようになった。中央との連絡のためには、毎年1、2回船で上京していたが、5年6月には、マラン神父(Marin, 慶応2年来日)が、2人のスイス人商社員と一緒に、 米沢から小国を経て新潟を訪れた。マラン神父たちは、政府の特別な許可を受 け、外務省から派遣された3名の日本人に伴われて、奥羽諸地方をめぐる大旅行をなしたのであった。その時の旅行記や写真が、翌年ヨーロッパの雑誌に連載されて、今日に伝わっている。それによると、一行が訪れた時、新潟には英国領事、プロシア領事、エヴラール神父、ドイツ人商社員の4名しか、ヨーロッパ人が住んでいなかったとのことである。同年5月13日付けで新潟から書いたエヴラール神父の書簡と比べると、同年4月から5月中旬まで続いた、大河津分水工事反対一揆の際、一部の外国人は、いち早く 船で避難したようである。6月20日、マラン神父一行が会津若松へ行くのに、エヴラール神父は、新発田を経て赤谷あたりまで同行した。当時の新潟の人口は2万4千、新発田の人口は7千と記録されている。 

 翌6年9月に来日した若いフォーリー神父(Faurie)も、同年秋からエヴラール神父のもとで日本語を学んだ。7年3月ごろには、白山の小林四郎氏、堀小太郎氏、坪井良作氏なども、フランス語を習いに来ていたという。坪井良作氏が明治5年3月から発行 した、月刊の北湊新聞が木版刷りなのを見て、神父は、氏に活字にした方がよいと忠告し、まもなく上京して、横浜から活字を取り寄せてあげた。こうして発行された「新潟 毎日新聞」こそ、新潟県での最初の日刊新聞である。同じ上京の折に、神父は、東京で青年のための塾を開いていたマラン神父をたずね、自分の勉学の手伝いをしてくれる書生を願ったが、塾生の中には、はじめ新潟へ行こうとする者が1人もいなかった。しかし、ようやく1人の青年が、神父の書生となることを承諾した。それが、後年、総理大臣となった原敬氏で、原氏は、7年4月に陸路新潟へおもむき、エヴラール神父は、海路新潟へもどった。原氏は、ここでエヴラール神父の日本語学習を助けるかたわら、フ ランス語を学んだ。後年太政官の外交文書その他の翻訳に活躍したエヴラール神父の日 本語は、こうして新潟で習得されたのである。「原敬日記」によると、原氏は、翌8年4月、自分の就学について別に考えもあり、分家する必要も生じたので、故郷盛岡への 帰省を願ったところ、エヴラール神父も、保養のために旅をしたい考えをもっており、 神父が旅行免状を得た後、2人は、長岡、高崎、東京、福島などを経て、5月21日に盛岡に着いた。神父は、そこで1週間滞在したが、盛岡教会の洗礼台帳によると、その間5月25日に11名に洗礼を授けた。神父は、その後青森へ出て、船で新潟へ帰り、原氏も、 弟の誠を伴って来て、再び新潟に滞在した。しかし、同年9月、新潟でまだ1人の信者も獲得しないうちに、エヴラール神父は横浜へ転任になり、原氏も新潟を去った。 

 その直後の10月、ドルワール・ド・レゼー神父(Drouart de Lézey, 明治6年来日) が、数え年22才の新城信一氏(明治4年11月12日、函館で受洗した南部藩出身者)を伝道士として、東京から歩いて新潟へ来任した。明治初年に種々の誤解が生み出した、外国人に対する民衆の反感は、このころには少し静まっていたようである。進歩的な楠木県令らの努力が実ったからであろうか。新潟に落ち着いたドルワール神父は、「老司祭の回想録」の中で、新潟に着いた翌朝の印象を、次のように述べている。

「私は、まず新潟を見渡したいと思い、砂山に登った。私はその時、これでいよいよ砂漠の隠遁者になるわけだ、と半ば悲しく、半ばおかしくなった。町というのは名の みで、こんなさびしい離れた郊外の家を借りて、どうして布教教会であり得よう。たとい志ある者が教会をたずねるとしても、このような所まで来るのは、郊外に遠足す るようなものだ。だから、まず第一に配慮すべきことは、新潟市街のなかに借家することだ、と考えた。」(「声」、大正元年8月号) 

ドルワール神父
ドルワール神父

しかし、当時の県庁は、外国人が町の繁華街に借家することのないよう、きびしく取り締っており、日本人によるまた貸しも禁じていた。ただ、新潟では、外国人の居住が政府から許されているだけで、その居住区域の制限は、まだ具体的に決められていなかっ た。神父は、町の中心部から遠くない借家を、伝道士を通じて2か月ばかり捜してみたが、借り主が外国人の宣教師だと聞くと、いつも破談になってしまった。中には、外国人に家を貸すことは、ある筋から差し止められている、と答えた家主も2人いた。そこで考えたのが、その禁止にそむいてまた借りし、県庁からとがめられた ら、県庁側が政府の条約にそむいていて、外国人の新潟居住を妨げている点を指摘し、改めないな ら日本政府に訴える、とおどす手段であった。しかし、この計画実現のためには、規則違反を承知でまた貸ししてくれる、気の強い日本人が必要であった。幸い出入りの洗たく屋が、神父に同情してくれ、その年の12月、「自分の主人のために」 と言って、多門通りの大きな家(後年の商工会議所の向かいかど)を借り、神父にまた貸しした。 神父が家財道具を持ち込むと、案の定、わずか数分後に家主があおくなって駆け込んで来、洗たく屋に対して激怒した。翌日、洗たく屋は、県庁に呼び出されて大叱責を頂だいしたが、同時に、ドルワール神父も、自分から県庁へおも むき、永山盛輝県令と面談した。永山県令は、鹿児島県出身の、立派な武士風の老人で、 神父を丁重に迎え、その言い分をよく了解してくれた。1週間の後、洗たく屋は何円かの罰金で事が済み、神父は多門通りの立派な家を借りて住むことが許された。もちろん、 罰金は神父が払った。 

 この洗たく屋とは、前述した米商人渡辺喜兵衛氏で、このころにもまだ米商人であったらしく、明治16年11月1日発行の『公教万報』には、新潟区営所通り1番町に住むパウロ渡辺喜平氏が、蒸汽船に乗って北海を航行中、誤って海中に落ち、まさにでき死しようとしている人を見て、生命の危険も恐れずに大波の中へとび込み、その人を救った こと、ならびにそのことで、同年9月に新潟県令から賞状をいただいた記事が載ってい る。渡辺氏は、また貸し事件が縁となってカトリックの教えを学び、半年後の9年6月24日、3才になるその子九郎と一緒に受洗した。その後、自宅の仏壇を売り物に出した ことから、世間の非難を受け、商売ができなくなるほどに迫害されたので、とうとう東京へ出たという。妻の死後、明治31年、函館市当別のトラピスト修道院助修士となって、 ヨアキムという修道名を受け、13年の修院生活の後、数え年70才で永眠した。 

 渡辺氏の洗礼に先立って、新潟に受洗した人は3名いるが、いずれも、ドルワール神父が多門通りに移転してからの求道者である。最初に受洗したのは、鶴岡県中野曾根村 (昭和29年酒田市に併合)から来た29才の阿曾吉常氏で、9年4月15日に受洗した。第2の受洗者は、25才の大江雄松(たけまつ)氏である。大江氏は、北蒲原郡八幡村(新発田の東南約7キロ)の名主の家に生まれ、明治8年2月、新潟に出て他門通りに居を 構え、人力車4、5台を置いて貸人力車業を経営していた。人力車の発明は明治3年2月のことで、翌4年に荒川太三氏が10台仕入れて営業を始めたのが、新潟に人力車が登場した最初であった。そのわずか4年後のことであるから、大江氏も、当時としてはなかなか進取の気象に富んだ人であったと思われる。ドルワール神父が隣家へ引っ越してきて、門前に「天主公教会」の看板と問答に応ずる旨の張り出しとを見た時、大江氏は、 初め新しい異人宣教師をけがらわしく思い、その教えを論ばくするために、神父に議論をいどんだ。論争が1週間も続いたかと思われるころ、大江氏は、神父の明快な答えと高潔な人格に屈服し、とうとう神父の弟子となって生きることを望み、教理の研究を始めた。 

 大江氏の受洗は9年5月25日のことであるが、その前の3月20日すぎ、ドルワール神父は、新発田に布教所を開設するため、借家の準備が整ったら、新潟の神父に連絡することにして、まず、大江氏と新城伝道士とを新発田へつかわした。2人は、新発田・横町の目指す貸し家を借りることに成功し、家賃の前払いも済ませて、説教所の準備に取りかかった。しかし、そこへ異人が来ることが知れると、家主は解約を迫り、ついに警察からの命令で、家主から前払い家賃を返され、破談になってしまった。一方、新潟のドルワール神父は、その後1週間たっても知らせがなく、2人が訴えられて、警察にでも拘留されているのではなかろうかと心配して、8日目の3月30日に、徒歩で新発田へやってきた。夕刻、借りているはずの家へきてみたら、貸し家という札が張ってあった。隣家に尋ねると、借り手はあったが、その人が移ってこないので、家主が再び貸し家札を張った、との返事であった。いよいよ彼ら2人は拘留されているのだと思い、まず確かな消息を知るために、人力車を雇って、大江氏の出身地八幡(やわた)へと急がせた。 途中、新発田の本通りで警察官に呼び止められ、ひと問答しなければならなかったが、 八幡に着いてみると、のん気に談笑している2人に会い、喜んだりあきれたりした。その晩は、そのまま大江氏の家に宿泊した。異人が宿泊したというので、八幡の村民は興奮し、竹やりを携えて、翌朝まで大江氏の屋敷を包囲していたという。翌31日に神父が 新潟へ去った後、大江氏は、新発田の警察署から呼び出され、種々の尋問の後、猿橋村の岩村金蔵氏方に数日間軟禁された。しかし、大江氏はそんなことに負けておらず、そ の直後の4月10日、岩村氏宅で、カトリックの布教講演会を開催させた。4月22日、新城伝道士も再度新発田へ進出し、地蔵堂町に大池政治氏の座敷を借り、表に古物商の看板をかけて、布教に専念した。 

 エヴラール神父の下で日本語の習得を終えたフォーリー神父は、明治8年ごろから新潟近郊の諸地方を巡って、伝道の端緒をつかもうと努めたが、なかなか成功せず、道すがらめずらしい植物の採集を始めた。新潟滞在中にめばえたこの小さい趣味は、晩年には立派に実って、神父の名ある植物採集者にまで高めたのであった。9年の春ごろから は、神父も、三条出身の飯沼ミチラ伝道士の協力を得て、新津、五泉、新発田などの諸 地方で、活発な伝道活動を始めた。同年6月15日、新発田・地蔵堂町86番地の佐藤栄太郎氏(29才)が、神父の手から受洗したが、これが新潟教会洗礼台帳に記録されている、 第3番目の受洗者である。神父は、その後もドルワール神父と密接に協力しつつ、精力的な大江雄松伝道士や四国出身の細渕伝道士に助けられて、数多くの蒲原出身者を改宗させた。その伝道範囲は、新潟を中心として、新発田近在の諸村から村松、三条にまで及んでいる。 

 明治10年9月、来日して日まだ浅いテュルパン神父(Tulpin,明治10年来日)が来潟し、フォーリー神父は、東京へ転任した。ドルワール神父は、この年の暮れ、司教に佐渡布教を願い出て許され、まず夷町へ大江伝道士を送り、適当な家を借りて宿屋を経営させ、そこへ自分が泊めてもらうことにした。2年前のまた貸し事件のような騒ぎを、 回避するためであった。大江氏は、翌11年5月初めに渡島し、夷町(明治34年町村の合 併で両津町となる)147 番地の大きな2階建て家屋と同じく30番地の平屋とを、家主本間金五郎氏から借りることに成功した。本間氏は、夷港の船問屋で、宝石、ローソク、 その他の商品を扱っていたが、持ち船の破損で大損害をこうむり、高価な家賃を払ってでも借家したいという人のあるのを見て、自分の大きな住宅を貸し家にし、自分はその 前にある小さな家に住んだのであった。 大江氏は、さっ速まかない方に佐藤平太郎氏 (新潟から一緒に渡った人?)を雇い入れ、表に宿屋の看板を掲げて、ドルワール神父に通知した。神父は、机、いす、その他の家財道具を送り、大江氏に自分の到着する日時を知らせて、自分は旅人のようにして行くから、約束の時間にその家の前に立ってい るように、と命じた。それから神父は、なるべく、本当の旅人に見えるように身仕たく を整え、新潟からではなく、わざわざ寺泊から赤泊行きの船に乗って、赤泊から夷町まで歩いた。約束の午後5時ごろ町にはいると、子どもたちは、「異人がきた、異人がきた」と叫び、両側の家からは、多くの人が駆け出してきて神父を見たが、悪口を言う人は1人もいなかった。数10人の子どもたちにあとをつけられながら、しばらく行くと、 大江氏の立っているのが見えた。神父は、まず安心と心の中では喜びながらも、素知らぬ顔でそばへ行き、「外国人でも決してご迷惑をかけませんから、どうぞ泊めてください」と願うと、大江氏も知らぬふりをして、どこから、何のためにおいでになったのか、 などといろいろなことをたずね、ようやく泊めることを承諾した。座敷にはいって2人きりになると、両人は、あごをはずして笑ったとのことである。 

 8日の後、神父は、散歩の途中で会った気品のある老医者をその宿へ招待し、ポルトガル産ブドー酒を供しながら、自分がキリスト教宣教師で布教のために佐渡へ渡来した のであることや、人をつかわしてこの家を借りさせたのもそのためであることを打ち明け、できればこの家を自分の名儀で借り、公然と布教したい希望を述べたところ、老人 は、「なあに、そのくらいのこと、少しもご心配なさるな。この家の主は、私の親戚です。たやすくできましょう」と答え、すぐに本間金五郎氏を呼んできて、何のめんどうもなく、新しい契約を成立させてくれた。神父は、「夷町は新潟よりも開けている」と言って喜び、その晩、この2人とその友人3人、すなわち夷町の戸町とと学校長ともう1人の医者とに、できる限りの立派な西洋料理をふるまった。 

 町の有力者に容認され、支持された夷町のカトリック布教は、その後順調に進展した。 当時、佐渡には眼病人が多かったが、神父の持参した「カルの奇水」と呼ばれるフランスの目薬をつけて、数日間で全治した人が4、5人も出て以来、その評判は各地に広まり、一時は、眼(め)の悪い人が毎日2,30人も、神父をたずねてきた。これが切掛け となって、神父はその後、夷町から4キロばかり離れている羽吉村をはじめとして、相川、河原田(昭和29年佐和田町となる)、新穂(にいぼ)、ならびにその他の村々で説教し、本間氏の本宅である借家でも、毎月15日に説教をした。神父の書くところによる と、佐渡の住民は、飾り気がなく、無骨で、多少がんこではあるが、子どもを別にする なら、外国人宣教師に向かって悪口を言う人は1人もいなかった。佐渡では、柔和謙そ んで社会的に高い地位にある人は、なかなか改宗せず、逆に、社会一般の人と歩調を合わせようとしない高慢な人が、意外に入信した。1年間の布教で、約30名の改宗者を得たが、夷町で信者の家が2軒できたほかには、町の人はほとんど受洗せず、海辺の漁民はもっとも改宗させがたくて、純ぽくな農民が、 一番多く信者になった。 明治11年か ら12年にかけて、夷町の教会には、もう1人バランシェ神父(Balanche, 明治10年来日) も助任として滞在し、ドルワール神父の指導を受けて、日本語の学習に励んでいた。しかし、まもなく肺病にかかって東京へ呼びもどされ、2年後に帰天した。

 ドルワール神父が11年5月に佐渡へ渡った後、テュルパン神父は、12年8月まで新潟教会主任の地位にあり、助任としては、11年にシュテル神父(Sutter, 明治6年来日) が、12年にムガブール神父(Mugabure, 明治8年来日)が滞在した。なお、12年の2月から4月にかけて、ヴィグルー神父(Vigroux, 明治5年来日)も滞在したが、パリ 一外国宣教会年報(以下略して年報と書く)によると、それは旅行途中での滞在で、助任してではない。宣教師たちの住居は、11年1月に、多門通りから東仲通り1番町8番地の借家へ移転した。 

 11年の蒲原布教で特記すべきことは、新発田から3キロほど離れた加治村の前田長太氏(当時21才)の改宗と、水原在の保田村から山の中へ約3キロはいった丸山の村民が、集団的に改宗し初めたことである。長太氏の父前田セイサイ氏は、稲荷神社の神主であったが、大酒飲みで、神主としては少し型破りの人であったようだ。ある日、新潟に出てドワール神父と議論したら、神父からまた遊びに来るようにと招待され、機げんよく承諾して帰宅した。翌日、新潟から1台の人力車が加治村早道場の前田氏宅へつかわされて来て、「よろしければ、これに乗って来るように」という、ドルワール神父か ちの伝言をもって来た。この思いがけない神父の厚情に心を動かされた前田氏は、その 使たびたび新潟へ行くようになり、ついに神主をやめて10年のクリスマスに受洗し、翌年4月から5月にかけて、一家を全部改宗させたのであった。前田長太氏は、ほどなく宣教師となるために上京し、しばらくドイツにも留学して、27年9月25日、浜松出身の外岡金声(とのおか・かねなり)氏と共に、東京教区最初の邦人司祭となった。語学に達者な前田長太氏は、明治40年に司祭をやめて後も、慶応大学教授に迎えられたが、氏 がそれまでの明治30年代に、在京一流知識人の間に互して、数人の宣教師と共に、カトリックの文筆活動を盛んにした功績は大きい。丸山は、わずか10数戸の山村で、村民のほとんどが本間姓を名乗っており、伝えによると、17世紀後半の寛文年間に、佐渡の豪族本間氏の一族に属する者たちの移住に起源をもつという。11年5月に、佐渡の本間氏がカトリック宣教師を支持したのと関係があるのかないのか不明だが、同年8月6日、 丸山の庄屋本間郡太郎氏(30才)とその弟小次郎氏(26才)とが、それぞれその幼児1 名と共に受洗した。本間郡太郎氏は、新潟に外国人宣教師が伝道していると聞いて、30余キロも離れている新潟へ、自分からその教えを聞きに来たという。よほどの進取の気象に富んだ人であったのであろう。それ以来、丸山村民の改宗は急速に進み、まもなく受洗者46名を数えるに至った。 

テュルパン神父
テュルパン神父

 明治11年春から12年夏ごろまでは、蒲原地方一帯に改宗熱の高かった時であるが、プロテスタント側でも、スコットランド人宣教師で医者であったパーム師(Palm, 明治7年来日、翌8年5月来潟)が、患者の治療に好評を博したり、11年ごろ、 押川方義(おしかわ・まさよし)氏の助けを得、 新潟・古町通り6番町の常盤座を借りて耶蘇教演説会を開いたりしてかなりの成果をあげていた。 12年の春、そのパーム師の教えを聞き、しばしば洋食のふるまいを受けていた29才の商人青山嘉七氏が、急にカトリックへ転向し、4月6日の復活祭に、妻テルと共に受洗した。青山氏は、当時新潟・東仲通りに住み、石炭、牛乳、ブドー酒な ど、主として外国人相手の品物を売る商人であった。それで、パーム師の所だけではなく、テュルパン神父の所へも出入りしていたが、神父に対しては、がんこに議論をたたかわして、なかなか承服しない男であった。ある日の午後2時か3時ごろ、カトリック教会に来て案内を求めると、いつもは見たこともない12,3才の美少年が出て来て、「神父様は散歩に出てお留守だけど、別の方がいるからおはいりなさい」と答え、部屋へ通してくれた。そこには白髪の老外国人がいて、青山氏をやさしく迎えた。老人は、 気品の高い温顔と外国人とは思われないような日本語とで、いろいろな話をしてくれたが、なかでも青山氏を感動させたのは、そのちょうど21年ほど前に、聖母がフランスのルルドでベルナデッタという少女にご出現になった話と、帰りがけに老人が見せてくれた別室のキリスト十字架像であった。十字架像は、今かけて死んだばかりと思われるような、いたましい生身のキリストのお姿であった。あるはずがないとは思ったが、目の前に現実にあるのを見て、青山氏は、転倒するばかりに驚いた。家に帰って、妻にもそのことを話したが、あまりの感動に、夜も眠れなかったという。翌朝早く、青山氏は再びテュルパン神父をたずねてみた。神父に会うなり、すぐに昨日の人のことを尋ねると、 神父はカラカラと笑って、「なあんだ、あんたは夢を見たんだろう。教会には、私のほかに誰もいないんだから」と答えた。「いいえ、夢だなんてとんでもない」と、青山氏が見聞きした一部始終を語ると、今度は神父が驚嘆した。日本へ来ているフランス人宣教師の中には、そのような老人は1人もいないし、ルルドの奇跡談は、フランス人宣教師以外にまだ日本で知っている人がいないのに、自分が一度も話したことのない話を、 青山氏が自分よりも詳しく知っていたからである。青山氏は、その後も20数年後の将来を予言して、それが適中したり、自分の死ぬ数か月前に、人々に自分の死ぬことを告げてあいさつまわりをしたりしており、テュルパン神父についても、同様の不思議な話がいくつか伝えられているが、ここでは省略する。上記の出来事の後まもなく受洗した青山氏は、テュルパン神父の世話で、伝道士となるために上京し、浅草の伝道学校で1年間教理を研究した。 

 同じ12年の春、ドルワール神父は、夷町長の世話で加茂湖畔に一つの敷地(両津教会現在地、明治34年に起工した斉藤八郎兵衛氏の加茂湖埋め立て工事以前には、湖のすぐそば)を借り、同年そこに佐渡で最初の西洋館を建てて、本間金五郎氏の家から引っ越した。この教会は、夷町から河原田、相川方面へ行く道の出口に面しており、教会から50メートルほど離れた隣地は、火葬場になっていた。火葬場とはいっても、今日のような高い煙突がなく、西風の時には、教会の建物全体が無常の煙に包まれた。これは衛生上有害で、当時の規則にも許されていなかったから、神父は、火葬場の移転を相川支庁 に交渉したが、ほかに適当な場所が見当たらないという理由で、数年間そのままに放置された。 

 さて、12年の夏、新潟にコレラが流行し出すと、県はコレラ病予防のため、果物や魚類の売買を禁じ、患者は強制的に避病院へ運ばせた。魚が売れないで困る漁民の多い下町(しもまち)には、たちまち不穏な空気がただよい、8月5日、願随寺境内に集まっていた住民は、コレラ死亡者を護送して通りかかった警察官と乱斗を始め、その折に、 小池上家の土蔵を破って諸道具を持ち出したり、他の家数軒に押しかけて乱暴を働いたりした。その2日後、沼垂でもコレラ騒動が起こった。そのころ、一般の人々の間では、 コレラ病が流行するのは、井戸や川に毒をまき散らす者がいるからだ、という流言が広まっていたが、たまたま8月7日の午後、新発田の安田半之助という若者が、沼垂の川ばたで顔を洗い、薬びんを取り出しているのを見た人が、「あそこに毒まきがいる」と 騒ぎ出したことから、新潟警官隊と沼垂町民との間の、激しい流血騒ぎにまで発展した のであった。2つの暴動は、いずれも警官隊によって鎮圧されたが、住民の激しい不満は、警官によって保護されている外国人に対する悪口と変わり、新潟にコレラが流行したのは、外国人が毒をまいたからだ、ということにされた。 

 外国人が毒をまくといううわさは、佐渡にまで広まったらしく、ドルワール神父は、 そのころのことを次のように回想している。「外国人で佐渡にいたのは、私ひとりであった。それで、私がコレラを佐渡に流行させるのを心配しているといううわさが立ち、夷町の戸町が心配して、外出しないよう。 にと忠告してきた。(中略) しかし、私は、住民のうわさを気にとめず、いつものように外出した。なるほど、外で会う人の中には、私を憎悪の目で見る人が随分いた。 私は、そのようなばかばかしいうわさが、実際にあるのかどうかを確かめたいと思い、 2、3度、多少年上のまじめそうな人に向かって、丁寧にまた穏やかに話しかけてみた。彼らは、その都度、あなたがコレラ病の種を夷の湖水と川とにまくのでしょう、 と答えた。なお、そのやり方については、人に見られないようにして、あなたの持つそのつえの中に毒を入れておくのでしょう、と言った。私は、つえを示して、その1人に調べさせたが、彼は首を横に振って、今私が調べてもだめです、これは異人の造 ったつえだから、穴があっても、見いだせないようにできています、と答えた。私は なおも、もし私が湖水に毒をまいたのなら、魚がみんな死ぬはずだが、まだ一匹の魚も死んでいない、と言った。しかし、彼はどこまでも疑う心にこり固まっていると見 え、いやいや、異人は利巧だから、魚を殺さずに、人間だけを殺す毒を造っておく、 と答えた。こうまで疑われては、もはや何も言うことはない。黙ってこらえ、その評判の消えるのを待つほかはない。」(「声」、大正2年3月号) コレラ病の流行が終わり、市場の規制も徹廃されると、外国人に対する悪いうわさも次第に消えた。しかし、宣教師に対する住民の悪感情は、まだ長く続いた。

 12年8月、新潟では、テュルパン神父にかわって、ムガブール神父が主任となった。 しかし、布教の成績は激減し、洗礼台帳に従うと、その年の終わりまでにムガブール神父から受洗した人は、わずかに6名で、コレラ騒動以前の1年間にテュルパン神父から受洗した123名とは、比較にならないほど少ない。 テュルパン神父は、この年の11月から翌年2月までの間に、酒田、鶴岡方面での布教を試み、総計63名の受洗者を出してい るが、これについては後述することになろう。

 13年春、テュルパン神父は、東京での教理研究を終えて帰ってきた青山嘉七氏を、伝道士として丸山に居住させた。氏は、丸山で一番大きな家の一室を借りて家族と共に住 み、信者の世話にあたった。青山嘉七の名は、徳川時代のはじめから新潟で代々続いてきた商人の名として、 丸山の村人たちにも知られていたのか、新しい伝道士の話は、 「山嘉の旦那の話」と呼ばれて、評判がよかった。 時折新潟から訪れるテュルパン神父の話も、大変喜ばれたという。同じころ、ドルワール神父は、オズーフ司教から北陸布教の命令を受け、大江伝道士と共に、佐渡から新潟へ移った。種々の協議の後、まず大江伝道士が伝道予定地を視察することになり、同年7月19日から8月14日までかかっ て新潟南部から北陸諸地方を視察した。ドルワール神父は、その報告に基づいて、同年 11月と、翌14年3月から6月までとの2回にわたり、北陸布教を試みた。しかし、この地方の住民がまだあまりにも保守的で、仏教勢力が強いため、ついに布教を断念するに至った。この2つの伝道旅行の間にも、神父は、新潟から佐渡へもどって信者を訪問し たり、テュルパン神父を助けて、丸山を訪問したりしていた。

 明治13年8月7日午前1時、新潟・上大川前通り6番町のある板蔵から火が出て、 6,715戸も焼いた新潟大水の際、 東仲通りに移転していたカトリック教会は災害をまぬがれたが、コレラ騒動のちょうど1年後のこととて、宣教師は、この時にもいろいろと悪くうわさされた。同じころ、テュルパン神父、ドルワール神父、大江伝道十の3人が 協議を重ね、村人の大部分が信者となっている丸山の、本間松太郎氏所有の松林に、間口4間、奥行8間の聖堂を新築することになった。請負者は、寺社村の武石和多七とい う人であったが、工事に手抜かりでもあったのか、建て前の済んだ翌朝、聖堂は大風で倒壊してしまった。丸山の聖堂建設計画は、その後しばらく延期された。 

 翌14年春、テュルパン神父は、オズーフ司教から突然に呼ばれて東京へ行ってみると、 司教は、神父のことをあし様に訴えている手紙を示し、東京・浅草教会へ転任するよう命じた(後年神父が青山嘉七氏に打ち明けた話による)。 神父は、一言も辯解がましいことを言わず、黙々と新潟を去って行った。神父が去るとまもなく、青山氏は伝道士をやめ、新城伝道士も横浜へ去った。

 14年4月から18年の春か夏ごろまで、ドルワール神父が再び新潟教会主任となり、その間、バレット神父(Balette, 明治10年来日)、クレマン神父(Clément, 明治11年来 日)、ド・ノアイユ神父 (de Noailles, 明治16年来日)の3名が、相次いで助任となっ た。ドルワール神父は、新潟教会の将来のため、東仲通りのわずか80坪の家ではなく、 もっと大きな地所を入手することに努め、15年8月28日、大畑の現在地 1,600坪を、 50年間の契約で借りることに成功した。このころの新潟教会には、相川出身の長島諦吉郎氏(嘉永5年に生まれ、江戸の斉藤弥九郎氏のお弟子となって剣道の免許皆伝を受ける。 明治14年ドルワール神父から受洗)が伝道士として働き、16年に新発田・小人町に設置された巡回教会には、平間幸右衛門伝道士が勤めていた。 

 16年4月23日午前1時ごろ、夷町の教会の4軒ばかり風上の家から失火し、強風にあおられて310戸を焼いたが、 大江伝道士が、駆けつけた信者3、4名の助けを得て、聖堂から聖主のご像などを辛うじて運び出すことができただけで、教会の建物は、全部焼けてしまった。ドルワール神父は、その後丸山布教に力を入れ、大江伝道士をそこに居住させた。翌17年春、神父は、丸山の本間郡太郎氏の屋敷の下手に保田・斉藤家所有の宅地90坪ほどを借り受け、新潟から大工を連れてきて、間口2間半、奥行5間の聖堂を建築した。同年8月15日に献堂式が盛大に祝われ、その後、ドルワール神父はしばしば この丸山に滞在した。神父は、このころにもまだ、時折佐渡の信者を訪問していたが、 18年4月からは、助任のド・ノアイユ神父が佐渡布教を担当した。ドルワール神父が、 新潟・大畑の地に、かなり大きな聖堂を新築する仕事で忙しくなったからである。この聖堂がいつ完成したのか、それを確かめる史料は現存しないが、新潟教会洗礼台帳には、 18年9月から、「聖母ご誕生の聖堂で荘厳に受洗」という言葉が用いられているから、 おそらく、この年の9月8日に献堂式が挙行されたのではなかろうか。

 同じ18年9月、ドルワール神父は仙台教会主任となり、かわって仙台教会主任のルマレシャル神父(Lemaréchal, 明治3年来日)が、新潟教会主任となった。21年春までの在任期間中には、コシェリー(Cocherie)、プティボア(Petiboy) の両神父が、相次いで助任となった。ルマレシャル神父がまず着手したのは、シャルトルの聖パウロ修道女会を招致して、教育事業や慈善事業を興す仕事であった。明治11年に来日し、函館で女学校、孤児院、診療所などを経営しているこの修道女会を、新潟へ招く計画は、すでに15年ごろからドルワール神父によって進められていたが、なぜかその実現に手間取っていた。しかし、19年春には、すでに修道女の家が完成し、修道女も4名在住して、女生徒、孤児、病人などの世話に努めていたようである。なかでも、愛徳の誉れ高いスー ル・マリー・アスパズィー (明治25年盛岡へ移り、大正元年東京で帰天)の施すフランスの薬で眼病のなおる人が続出し、修道女たちの施薬院は、次第に有名になった。19年6月11日、東北巡回の帰途新潟教会に立ち寄ったオズーフ司教は、修道女や信者、ならびに修道女の指導を受けている女生徒たちから盛大な歓迎を受け、17名に洗礼、20名に堅信の秘跡を授けた。翌日、視察のために修道女たちの家を訪問したら、女生徒たちのフランス語の歌、洋裁、和裁の作品、日本の礼儀作法など、いずれも見事な出来ばえであったという。同じころ、佐渡のド・ノアイユ神父も、前の教会の焼け跡に、再び聖堂と司祭館とを建設する計画に着手していた。 

明治19年ごろの新潟教会と明道小学校
明治19年ごろの新潟教会と明道小学校

 明治20年9月4日(日曜日)、オズーフ司教は、午前に新潟の聖堂で、9名の洗礼式と 18名の堅信式とを執行し、午後に同教会付属の明道小学校(尋常4年、高等2年)の開校式に臨んだ。開校式には、県知事代理の近藤書記官や警部長、学務課長等も列席して、 近藤書記官は祝詞の中で、 

「日本現時の文明は、そが手本を泰西国に取れども、未だそが基礎を欧州に取らざるを以て、表面の形色は頗る相似たるものあるも、之を欧洲人の目から見るときは、所謂無学文盲者が哲学書を手に持ちて意気揚々たると同様、似て非なるものなり。然るに本日開校の当明導教校は、純然たる欧洲流の学校にして、教育の仕方極めて完備せり。けだし、本邦に未だ輸入せざる泰西文明の基根を、本日我が新潟に布設せしものと言ふて可なり。是ひとへに宣教師諸君並に童貞女教師諸子の尽力に由る」(『天主の番兵』、明治20年10月1日発行124号) と述べている。開校式とはいっても、授業はすでにその前から行なわれていたようで、 教師も生徒も式典に参列しており、教室には、女生徒の作った編み物などが展示されていた。校長は大江雄松伝道士で、学校の所在地は、当時の書面に営所通り2番町となっ ているが、実際の場所は、今の信者会館から消防署の敷地にかかるぐらいの所にあった ようである。なお、この小学校では、修道女経営の孤児院にはいっている寄宿生にも、 外部からの通学生にも、学費はすべて無料であり、孤児たちと一緒に生活する寄宿生には、少しの労働と家事の手伝いをするだけで、衣料とこづかい銭とを除く生活費も、全部無料であった。 

 続いて9月6日、オズーフ司教は度津丸で佐渡へ渡り、翌7日、まず新しい夷教会のための鐘の祝別式をなし、8日に盛大な献堂式を挙行した。佐渡諸地方ならびに新潟から参集した信者は70数名だが、 ほかに、生徒150名も連れて来た小学校教師や近隣の町村からつめかけた群衆を入れると、参集者は全部で3千を越え、道路は非常に混雑したので、警察官が出動して群衆の整理に当たった。 教会の前には、木造洋風の大きないかめしい門が建っていたが、 献堂式当日には、そこに大きな緑門を設け、堂内の飾りつけはもちろん、戸外でも、美しい鐘楼の十字架から四方へ糸を引いて、赤や青の提燈を250箇余りもつるした。この美しい聖堂は、たちまち夷町の名物とされ、献堂式後にも、村人たちが40人、50人と群れをなして参観に来たり、8キロも離れている小学校の先生が、生徒を引率して夷町へ遠足に来たりした。聖堂ができて、ド・ノアイユ神父の布教も急に活気を帯び、外国語や教理を教えたり、相川にまで出張したりして、多くの人に洗礼を授けた。しかし、夷町の住民自身は教会にあまり関心を示さなかったので、神父は、翌21年、相川でかなり大きな家を安い家賃で 借り、その家に小聖堂を設け、相川出身の長島諦吉郎伝道士を住まわせて、相川布教を 盛んにした。 

 

 20年11月から12月にかけ、間口7間奥行10間ほどの、新潟聖堂の後方をさらに13坪以上増築し、一層広く美しい聖堂に造り上げたルマレシャル神父は、翌年春に転任し、21年4月から26年9月までは、ルコント神父(Lecomte, 明治8年来日) が新潟教会主任となった。助任には、クリストマン神父(Christmann)、ベルジェ神父(Berger, 明治 20年来日)、リスパル神父(Rispal, 明治25年来日)の3神父が、相次いで任命された。 ベルジェ神父は、23年春から新潟に滞在し、青年にフランス語を教えたり、日本語を学んだりしながら、高田布教のために準備していた。しかし、数か月後に帰天してしまい、 カトリックの高田布教は、この時から長く断念された。聖パウロ修道女会の経営する小学校と孤児院とは、このころ次第に充実し、親のない子どもや親が教育を委託した子ど ものうちのかなり多くの者は、大江雄松伝道士の養子となり、大江姓を名乗って受洗した。当時はまだ、親権をもつ人の許可なしには、未成年者に受洗が許されなかったからであった。19年8月13日に登記法が、22年3月23日に土地台帳規則が公布されて、日本人ならだれでも、土地を購入して容易に登記することができるようになると、 神父は、新潟教会の建っている土地を大江伝道士の名儀で購入し、登記した。

 函館教区が、24年4月17日付け小勅書で設立され、ベルリオス司教(Berlioz: 明治12年来日)が同年7月25日に浅草で祝聖されると、新司教は、教区の会計係となすために、ド・ノアイユ神父を函館へ転任させた。そのため、しばらくコシェリー神父が佐渡に滞在し、25、6年には、新潟教会主任のルコント神父が、佐渡巡回の務めを担当した。

 26年9月から33年12月までは、クリストマン神父が新潟教会主任となり、助任には、 デフレンヌ神父(Deffrennes, 明治25年来日)、マトン神父(Mathon, 明治27年来日)、 ユット神父(Hutt, 明治31年来日)の3神父が相次いだ。26年のクリスマスに明道小学校で開かれた「大幻燈会」は、中学校教師樺正董氏の天文学関係の幻燈と解説とを中心にした集会であるが、同時に伝道士やクリストマン神父の講演会も兼ねており、小学校校舎は、 500名以上の聴衆で立すいの余地もないほどになった。26、7年といえは、25 年10月30日に発布された教育に関する勅語、ならびに24年6月17日の小学校祝日大祭日儀式規定(天皇皇后両陛下のご真影を掲げて最敬礼をなし、教育勅語を奉読する、など の指令)をめぐる議論や紛争のため、またナショナリズムの高揚のため、キリスト信者は、多くの地方で非国民呼ばわりをされた時であるが、協調的なクリストマン神父と大江氏の指導下にあった明道小学校においては、このような問題で一般人と対立したこと はなかったように思われる。27年2月9日の天皇陛下大婚25周年祝典や、同じく5月27 日に祝われた新潟教会初の聖体行列に、一般の人々も教会へ参集したことを思うと、新潟教会の信者たちが、当時世間の前でそれほど肩身の狭い思いをしていたとは思われない。

33年、クリストマン神父は、小学校校舎の一部を改造したり、新潟師範学校から外来講師を依頼したりして、修道女経営の女学校を開設し、開校式には知事や市長も祝辞を述べてくれたが、しか し、その後新潟市に女学校が設立されて、カトリックの女学校は大きく発展できなかった。最初の女学生数は、25名とも30名ともいう。このころに新潟に在住していた修道女は約10名で、明道小学校の生徒も、 孤児院に収容されている者 (寄宿生を含む)も、それぞれ5、60名を数えた。

 34年1月、室蘭でのアイヌ布教で少し健康を害したルッソー神父(Rousseau, 明治21年来日)が、新潟教会主任となり、助任神父はこの時からしばらく任命されなくなった。ベルリオス司教は、神父が肝臓病におかされていることを知ってはいたが、修道女たちの看護を受けながら無理をしないようにしていれば、自然に健康を回復すると考えた。ルッソー神父は、いたずら好きの機知に富んだ人であった。

 新潟教会の洗礼台帳を調べてみると、ドルワール神父、フォーリー神父、テュルパン神父の活躍した、明治9年から12年にかけて布教成績が一番よく、この4年間の受洗者229名のうち、臨終受洗者は3名、満14才以上の改宗者は159名を数える。その後は、 コレラ騒動の余波で改宗者が少ないが、17、8年ごろからのいわゆる鹿鳴館時代に、再び改宗ブームが起こり、おもにルマレシャル神父の活躍した18年から21年までの4年間 には、聖パウロ修道女会の教育・慈善活動に助けられたこともあって、受洗者217名、 そのうち臨終受洗者7名、満14才以上の改宗者79名を数えた。さらに、ルコント神父の 在任した22年から25年までの4年間にも、受洗者 621名の成績をあげた。しかしその中 から臨終受洗者 207 名、幼児受洗者267名、6才以上14才以下の受洗者57名を引くと、 14才以上の改宗者は、90名でしかない。 

 ところが、その大きな数字はその後次第に減少し、ルッソー神父の在任した34年には、 ついに大人の改宗者が皆無となった。マリオン神父の在任した35年から42年までの8年 間に、受洗した29名の大部分は幼児で、大人の改宗者は、そのうちわずか2名でしかな い。

 話は少し前後するが、佐渡の夷教会には、27年4月に再びド・ノアイユ神父が着任し た。しかし、いったん失った教会の信用をばん回することはむずかしく、同地の外国人排斥運動も根強くなっていて、両津教会の洗礼台帳に従うと、3年間働いてわずか10名しか受洗しなかった。31年から40年までは、スーヴェ神父 (Souvet)、ビアンニック神父(Biannic, 明治32年来日)、レーノー神父(Reynaud, 明治29年来日)、 ブレトン神父(Breton,明治38年来日)の4名が相次いで滞在したが、受洗者は相変わらず少なく、洗礼台帳に従うと、10年間の受洗者41名の大部分は、相川出身の産婆横田キンさんら受洗した臨終の幼児である。 

 集団改宗をした丸山の教会には、18年にドルワール神父が去った後にも、なお2年間大江伝道士が在住し、ルマレシャル神父とコシェリー神父とが、時々新潟から訪問していた。しかし、大江氏が20年9月に明道小学校校長になった後には、伝道士がいなくなって急にさびれた。それでも、21年春までは、ルマレシャル神父とプティボア神父とが、 時折伝道士を連れて訪れていたが、両神父が転任した後には、もうだれもこなくなった。 神父は来てくれなくとも、おそらく熱心な信者の幾人かは、大祝日ごとに、新潟の教会に顔を出していたことであろう。しかし、25、6年ごろ、各地にナショナリズムが盛んになると、丸山の信者に対する近村の人々の偏見と圧迫が強まり、村の篤信家たちも、 ついに教会との連絡を断つに至った。聖堂は、この地方の郷土研究家波多野伝八郎氏 (明治18年生まれ)によると、明治34年までは確かに建っており、その後、腐朽して取りこわされたようである。村長本間群太郎氏の子で、明治12年1月8日に7才で受洗した本間寛三郎氏は、青少年期に教会で得た体験がなつかしかったのか、67才の高齢になった昭和13年8月、赤飯を新発田の教会へ持参し、50年ぶりに信仰へ立ちもどったとのことである。明治10年代に新発田の信者たちが参集していた小人町の布教所も、20年代には、丸山と同様、伝道士がいなくなってさびれたようである。明治28年6月2日から3日にかけての新発田大火(いわゆる第2与茂七火事)で、小人町28戸も全焼したが、 しかし、信者の一家族がそこに住んでいて、宣教師が来ればいつでも宿泊できるようになっていたらしく、大正2年の夏に、新潟教会へ手伝いに来た秋田県出身の法学士安田忠治氏は、小人町の布教所を訪れた記憶をもつという。 

✚第2章 明治末期以降 

北海道ならびに東北6県と新潟県とのカトリック布教を担当する函館教区が明治24年に設立されて以来、北海道南部と表日本諸地方との布教は着々と充実され発展したが、 教勢のあまり振るわない秋田、山形、新潟の3県の布教については、ベルリオス司教は 一時深く心を痛めていた。しかし、キリスト教布教にもっと好都合な時勢が到来するま で、司教はこの地方の布教をそのままに継続させることとし、さし当たり、青森、岩手、 宮城、福島の諸県における布教活動の強化に力を入れた。 

 プロテスタントが、明治19年に創立した東北学院や宮城女学院の経営を通して、一般社会から高く評価されているのに目をみはった司教は、37、8年のころ、仙台に男子のカトリック学校を設立するため、マリア会の来仙を勧誘した。明治21年1月に来日したマリア会は、すでに東京、長崎、大阪、横浜にそれぞれ中等学校を設立しており、39年には熊本智山学院の開設にも踏み切っているが、人員上、財政上の都合、およびその他の事情が重なって、ついにベルリオス司教の勧誘に応ずることができず、仙台に孤児院を設置してほしいという司教の依頼をも断わった。そこで司教は、39年3月、ドイツの フランシスコ会を北海道へ招致したついでに、ウィーンに滞在中の神言会創立者アーノルド・ヤンセン神父をたずね、仙台に神言会経営のカトリック学校を設立してほしいと依頼した。ヤンセン神父は、明治15年以来、神言会員を続々と中国大陸へ送り込んでおり、発展めざましい日本に対する布教にも大きな 関心を示していたが、速答を避け、10日後の3月 27日に再び訪れたベルリオス司教と、細かい疑問点などについての協議を重ねた。そして、プロテ スタント系諸学校がすでにそれほどしっかりと根をおろしている土地で、ただ学校経営につとめるだけで、それに対抗できるようなカトリック学校を育てることはむずかしいから、仙台地方の教会布教の一部をも担当させてほしいと願った。司教 は、この願いに好意的であったが、ひとりで決めることはできないと答え、早速パリー外国宣教会本部や函館教区宣教師たちの意向を打診した。 その結果、東北地方全体の文化的中心で、教勢の最も好調に伸びている仙台あるいはその周辺地域の布教を、まだ日本布教に不慣れな新しい修道会にゆだねることに対する否定的見解が強く、結局、 神言会には秋田、山形、新潟3県の布教を担当させ、特に外国語教授によって、この地方における学生布教を盛んにしてもらうことになった。 

 39年8月15日、ベルリオス司教と神言会との間に、それについての暫定契約が結ばれ、 同年11月27日、神言会が「秋田」で布教を担当することが、ローマの布教聖省から認可された。こうして40年9月8日、最初の神言会宣教師ヴァイク (Weig, 1867~1948)、 チェスカ (Ceska, 1877~1951)、ゲルハルツ (Gerhards, 1881~1939)の3神父が横渋に着き、フランス人宣教師たちから親切なもてなしを受けながら、東京や仙台でそれぞれ数日を過ごした後、9月15日(第3月曜日)に秋田に着いた。布教長のヴァイク神父 は、哲学博士の学位をもち、来日する前に約16年間山東省で働いていたので、中国語はよく知っていた。

 明治41年1月24日、2度目に新潟を訪れたヴァイク神父は、この地に男子のカトリック学校を設立するため、病弱なマリオン主任神父に交渉を依頼して、一緒に建設用地を物色し始めた。東大畑通りの教会に近い、全市を一眺の下に見おろすような砂丘の上に、1軒のかなり大きくて手ごろな家を見つけたが、値段が非常に高いので、交渉は破談に終わった。しかし、同年9月の大火でその家が焼失した後には、そこを買わないでよかったと思った。「次に見つけた旭町2番町の土地は、交渉に手間取り、 4時間もすわり続けなければならなかったことは、来日してまだ1年もたたないヴァイク神父にとって、煉獄にでも入れられたような苦痛であったという。幸い交渉はまとまり、砂丘上の土地約1,500坪を、1坪2円50銭という安値で買うことができた。土地は、 早速函館のトラピスト修道院長岡田普理衛氏の名儀で登録されたが、その帰途、神父 は横浜のシュタイヒェン神父に呼ばれ、2月2日、同神父から東京大司教区のうち北陸 3県の布教を担当してほしいとの依頼を受けた。翌日、ムガブール大司教からも同様の依頼があった。この話が神言会本部の承認を得て正式にまとまったのは、同年5月の末で、神言会員の北陸布教は、同年秋から始まった。41年5月23日、新潟の旭町2番町に 伝道士養成の学校を設立する許可が、神言会本部から電報で伝えられ、すぐに建築会社 桜井組に依頼して工事が始められた。「山の教会」と呼ばれたこの美しい西洋館の完成は同年8月末であるが、それに間に合うように、8月21日、秋田からチェスカ神父とゲルハルツ神父とが派遣された。2人は、汽車で東京ならびに長野を経由して新潟へ赴任するのを好まず、自転車と蒸汽船とを利用して、日本海沿いに進んだ。鶴岡で2、3日 滞在した後、チェスカ神父は三瀬から船で新潟へ向かったが、体力に自信のあるゲルハルツ神父は、自転車をとばして、鶴岡から新潟まで1日で着いたという。新潟名物の一つであった木造万代橋(明治19年落成)は、同年3月8日に、1,198戸を全焼した新潟大火のため焼失し、信濃川を船で渡らなければならなかった。 

 2人が新潟に落ち着いて数日を経た9月4日の午前1時過ぎ、古町4番町から出た火は、春の大火に焼け残った37か町にひろがり、またまた2,122戸を全焼した。 東大畑通り1番町の教会、明道小学校、ならびにそれに付随する建物も全部焼けたが、火が強風にあおられて迫って来ても、シスターたちは、「この教会は大丈夫、焼けないから」と子どもたちを励ましてお祈りさせ、家財を運び出すのがおくれて、多くを焼いてしまったようである。リュマチスをわずらっていたマリオン神父も、体が思うように動けなくて、火が迫ってからの避難は困難をきわめたと聞く。神言会員の住む山の教会は、幸い 類焼をまぬがれることができた。大火後、この新しい西洋館は、焼け出された教会関係者たちの救難所となった。シャルトルの聖パウロ修道女会は、やがてその布教が全部ドイツ人宣教師の手に委託されようとしているこの新潟に、再び小学校その他の施設を建設することを望まず、この火事を機会に、新潟から完全に手を引いてしまった。新潟教会主任のマリオン神父は、神言会員と一緒に山の上の教会に住んだ。ゲルハルツ神父は、その後しばらくして、佐渡の夷教会へ派遣された。そこにはド・ノアイユ神父が建てた美しい教会が建っていたが、明治25年以降そこに定住する宣教師がなく、佐渡の信者に対する巡回も、数年来ほとんどなされていない有様であった。しかし、波の荒い晩秋から春先までの数か月間は、新潟から船がこないため、万一に備え、そこには常時2人の宣教師を滞在させることが望まれており、宣教師の少ない当時にあっては、発展性の乏しい佐渡布教は非常にぜいたくなものに思われた。でも、すでに教会堂があって信者もいる以上、宣教師が幾年間も滞在しないということはよくないので、ベルリオス司教からの強い要請を受け、ゲルハルツ神父が渡ったのであった。同年10月下旬には、来日したばかりのフリービ神父も、横浜から急いで佐渡へつかわされた。 

 翌42年の3月19日、諸般の準備が整い、聖ヨゼフにささげられた山の教会で、聖ヨゼフ伝道学校が開設された。開校式には、校長のチェスカ神父のほかに、マリオン神父と佐渡から参集した2神父も出席したが、入学者は、山形県出身のヨゼフ白崎良導氏ただ1人であった。白崎氏は、初め会津若松の漆器屋にでっち奉公をしてみたが、無器用なため仕事に向かず、コルジェ神父に拾われて、しばらく若松教会でコックや小使いの仕事をしていた人であった。 コルジェ神父からつかわされて、伝道士養成の学校にはいってみたものの、程度の高い勉学に対する意欲は全くなく、結局伝道士になることを断念 し、上京して八百屋になったという。明治の前期には、伝道士は有能で進歩的な若者た ちの一つのあこがれの的であった。そのころには、仏僧を相手に堂々と論陣を張るこ とも、すぐれた宗教演説で数百人の聴衆を感動させることもできた伝道士が少なくなかった。しかし明治の末期には、社会のすう勢も、教勢の伸びない教会内の雰囲気も大きく変わってしまい、伝道士は、若者たちの目に、あまり仕事のない外国人に仕えている、 かわいそうな小使いさんのようにしか映らなかった。当時のフランス人宣教師たちの間では、「何にもなれない人間が、巡査と伝道士になる」などという言葉も、冗談まじりにささやかれていたという。白崎氏が去って、伝道学校も閉鎖された。

 高田で求道者の多かった明治末年から大正初年にかけてのころは、全国的に一つの思想的転換期になっていたのであろうか、同じころ新潟でも、多くの青年たちが新しい思想を求めて教会を訪れ、人生、政治、社会などの諸問題について盛んに論じ合い、チェスカ神父は、その応答に多くの時間を奪われていた。2つの大火後の新し い建設ムードの中で、彼らは自由な論議をたたかわせる場を必要としていたのかも知れない。彼らの多くは洗礼を受けなかったが、しかし、教会が青年たちの自由な集会場となったことは、明治後期に若さを失った教会が生まれかわるために、決して悪くはなかった。マトン神父と守屋伝道士が大正元年に新潟を去った後には、酒井栄吉伝道士と田中伝道士が、新潟で働いていた。 

 青年たちの多くが思想問題に興味を示しているのを見たチェスカ神父は、大正3年3 月15日(四旬節第3主日)、信者である佐藤富五郎氏の協力を得て、東大畑通りのバラック教会内に聖ヨゼフ印刷所を開設した。印刷所とは言っても、初めの数年間は小さなものしか印刷できなかったと思われるが、それでも7年暮れには、チェスカ神父著「少年聖書」を発行販売して、声誌にも広告を出し、広くカトリック界にその存在を知られる に至った。しかし、翌8年に敗戦国ドイツの宣教師に対する統制がきびしくなるに及ん で、廃止されてしまった。一度は廃止された伝道士養成学校も、大正7年4月1日に、 聖ポーロ伝道学校と名称をかえ、ヘルマン神父を校長として、旭町2番町の山の教会で再開された。7年1月以降3回にわたって声誌に掲載された広告によると、入学者の資格は、中等学校4か年以上の修了者、またはそれと同程度の検定試験に合格した者、あ るいは校長によってそれと同程度以上と認定された者となっている。伝道学校の履修年限は3年で、新潟医専(のちの新潟医大)からも毎日講師が通い、その講義はかなり程 度の高いものであったようである。大正12年にヘルマン神父が長く病床に身を横たえるようになったため、伝道学校も一時的に閉鎖され、翌年金沢で再開されたが、それまで の7年間に新潟で学んで伝道士(「伝教士」と称していた)の資格を取得した人は、次の12名である。 

 第1回生(大正7年~10年):山本氏、塚本氏。 

 第2回生(大正8年~11年):片山弥三郎氏、橘国三郎氏、平山坦氏。 

 第3回生(大正9年~12年):青木斉一郎氏、坂井滋次郎氏、白川友吉氏、立野誠作氏。

  第4回生(大正13年~昭和2年):大江武雄氏、成田朝次郎氏、ほかにもう1人。

 廃止されたカトリックの印刷所も、大正9年に生命ノ木社出版部と名称を変更し、佐藤富五郎氏宅を中心にして寄居町で再開され、11年1月にはチェスカ神父の「少年聖書」 第3版を、同年12月には富山市の小黒康正氏が訳した「基督の模倣」を、その後はフィンゲル神父の諸著作を、次々と新潟天主堂から発行した。大正初年にバラック教会で形成された青年たちのつどいも、第1次世界大戦後には人が変わって、ほとんど信者だけの性格の異なるものになっていたと思われるが、大正11年2月5日、新潟公教青年会という組織を結成し、発会式をあげた。12名の会員で発足したこの青年会の活発な事業活動は、鍋谷秀夫氏の「新潟カトリック青年会史」(昭和11年4月12日発行の「双塔」所収)に詳しいので、ここでは割愛したい。それまで病人の慰問や相互の親睦のために続 けられていたモニカ会という婦人たちの集まりも、同じ大正11年、婦人会と名称を改めて相互の団結を固め、青年会に援助を願ったり、商品陳列所(後の県庁敷地)を借りたりして、毎年規模の大きな慈善バザーを開くようになった。 

 明治40年ごろに、新潟寄居町703番地に大きな家屋敷を構え、数多くの貸し家を所 有していた質屋業の大江雄松氏は、41年9月の大火で新潟でのその財産をほとんど焼失し、故郷の八幡村に退いて、村の青少年に対する教化活動に従事した。チェスカ神父は、毎月その八幡村を訪ねて大江家の家庭祭壇でミサをささげ、新発田ならびにそ の近郊に住む信者の世話をしていたが、大正3年5月、ミグダレク神父とローゼンフーバー神父とを佐渡へ派遣するにあたり、64才の大江雄松氏に、佐渡で再び伝導士と なって働いてくれるよう依頼した。大江氏は快諾し、若い神父たちと一緒に佐渡へ渡った。

✚新潟大聖堂の建設 

 新潟大聖堂の建設は、すでに大正2年にも企画され、オーストリア皇室の援助を仰ぎ、献堂式にはオーストリア皇太子(翌年6月28日セルビア人に暗殺される)を招待しよう、などという話までなされていたほどであったが、第1次世界大戦のぼっ発で建設資金を得る望みが消え、計画はあとまわしにされた。しかし、大戦後、この計画の実現は思いがけないところから熟して来た。明治43年創立の官立新潟医学専門学校が、大正10年2月に新潟医科大学に昇格することになり、その校舎増築の必要に伴って、山の教会が建っている旭町2番町の土地が高騰し始めたからである。教会主任のチェスカ神父は、このころから着々と聖堂建設資金の貯蓄に努めた。前述した大正11年創立の青年会や婦人会も、神父のこの計画に協力を惜しまず、諸種の売り上げ金の一部を聖堂建設のために寄付したり、建設資金の寄付を願ったりしてくれた。鍋谷氏の「新潟カトリック青年会史」によると、大正12年9月の関東大震災前に、東京の信者たちからすでに2,000円余りの寄付がなされていたようである。大正13年6月、旭町2番町の山の教会は、東大畑通りの教会敷地内に移されて、現存する神父館となった。こうして幾分余裕のできたバラック教会内には、翌14年5月1日、愛児幼稚園が創立された。 主任保母は、それまで毛馬内の幼稚園で働いていた酒井貞代先生で、京谷美智代さんが それを手伝い、当初の園児は20名であった。しかし、遊戯場は聖堂の信者席でもあったので、日曜大祝日の前には、机やいすを片づけ、数10枚の畳を敷くなどの苦労は、しのがなければならなかった。教会には、このころから小林五月さん(濁川出身で新潟医大の訪問看護婦だった)が、伝道婦となって勤務した。同じ大正14年、旭町2番町の所有地1,500 坪は、それを買った時の約20倍(おそらく7万数千円)という高値で売れた。

 翌15年12月3日、いよいよ新聖堂建設用地が祝別され、直ちに着工された。大聖堂の設計者は、ジュネーヴの国際会議場などを設計して、当時世界的に名の知られていた新進のドイツ人技師ヒンデルで、仕事は、新潟のコンクリート工業株式会社が請け負ってくれた。間口7間、奥行14間、建て坪98坪という木造新聖堂の、地盤線から屋根の上までは33尺(10メートル)、5層からなる双塔の上端までは75尺 (22.7メートル余) に達した。その建築様式は、ロマン式とルネッサンス式との折衷で、外壁は、堅ろう耐火性の金網ロックスタック塗りにしてあるという。内部には、正面の大祭壇のほかに、左右2つの副祭壇が設けられ、大祭壇へ向かう中央通路の両側には、約500名のための畳敷き座席が、後方の階上には、聖歌隊席が備えられていた。天井丸窓の色ガラスを通して差し入る光線が、祭壇上にあやなす影を投じ、白い天井やクリーム色の壁などとよく調和した、落ち着いた気分を作り出すのも、当時の人の目には非常に美しく映じたようで ある。明治以来異人池と呼ばれ、ボートまで浮かべられている池のほとりに、大きなポプラ並木に囲まれて建つこのエキゾチックな大聖堂は、その後たびたび絵画や詩の題材に選ばれた。なお、この建築と平行して、バラック聖堂は現在(1977年当時)、ヴィアンネー館とみその園の建っているあたりに移築され、その南西には教区長館が、また大聖堂前の広場には、現存する間口12間、奥行5間の伝道館兼愛児幼稚園舎が新築された。敷地の表入口に築かれた、6寸角の御影石門と石へいとは、第四銀行から寄贈されたものである。 

 以上すべての工事は昭和2年9月上旬に終わり、献堂式は、9月18日 (日曜日)の午前9時から、教皇使節ジャルディーニ大司教によって挙行された。来賓には、藤沼県知事、金沢内務部長、沢田医大学長、渡辺師範学校長らを始めとして、諸中等学校長、市教育課長、市会議員、実業家、各小学校長など、市内の名士数十名が出席した。若い岩下壮一神父による熱烈な説教も、堂内を感動で満たしたという。正午、新築の伝道館で祝賀会が催され、岩下神父の通訳する使節の祝辞や藤沼県知事の祝辞があり、終わってぶどう酒の祝杯、幼稚園児の童謡、劇、舞踊などが続いた。当日と翌日の晩7時からは、同じく伝道館で講演ならびに聖劇会が開かれたが、すでに8月下旬から各新聞がこの大聖堂の完成を大きく報じていたため、両晩とも参集者は場内にあふれ、総ガラス張りになっている場外からも、重なり合ってのぞき込むほどの盛況であったという。 

 この献堂式後の数年間は、カトリック教会の行事や活動が、事あるごとに新潟新聞、新潟時事、新潟毎日、北越新報などに大きく報じられているが、青年会、婦人会等の信者団体が活発に動いていたのと相まって、新潟教会が市民の関心を集めるようになっていた証拠であろ う。しかし、昭和期の新潟教会および新潟県諸教会の多彩な活動を、ここで詳述する時間的余裕はもうないので、以下昭和期の新潟県布教については、略譜だけにさせていただく。但し、割合に重要な事柄であっても、それについての記事がカトリックの諸出版物に掲載されていなかったり、あるいはそれについての史料が筆者の手元にまだそろっていなかったりして、略譜に幾分の疎漏のあることをあらかじめおわびしておきたい。

✚昭和の新潟、佐渡、新発田地方布教略譜

 昭和2年9月、佐藤春子さんを会長として、新潟愛児園児の「母の会」が創立される。このころの園児数は、約60名。
 2年10月29日 (土曜)、ピアノ購入資金募集のため、新潟劇場を借りて家庭娯楽会を開催し、愛児園児や卒業生の童謡、舞踊、劇「舌切りすずめ」、白川伝道士の映画「猿の喜劇」と「ローマの略奪」をひろうする。母の会の協力によって広い場内も観客でうずまり、その売り上げ金で高価なピアノが幼稚園に備えられる。
 3年2月19日、新潟大聖堂の鐘の祝別。

 3年12月25日、佐渡新聞主筆の石井佐助氏一家がプロテスタントより改宗す。石井氏は、相川町下寺町の屋敷1,177坪と、プロテスタント牧師のためにと思って建てた23坪の聖堂ならびに16坪の司祭館とを、カトリック教会に寄付し、それらはすでに3年9月29日に祝別された。同じころ、古い家を購入して相川海星愛児園が開設される。
 4年5月19日 (聖霊降臨大祝日)、新潟大聖堂にドイツ製パイプオルガンが設置される。パイプオルガンは、当時の日本の教会にはまだどこにも見られなかった。
4年、夷教会のキンダー・ホール(海星幼稚園の前身)が新築され、開園される。なお、このころに中学校増設の必要を痛感している新潟市と、チェスカ教区長との間で、神言会経営の新潟第2中学校創設の案が審議される。教区長は、もし新潟市が約4,000坪の土地を無償で寄付してくれるなら、高田師団の旧兵舎448坪2棟を報国商会の手を経て購入し、英語教育を特色とする、宗教的色彩のない中学校を設立することを、約束す。市長はこの提案に好意的で、二葉高等小学校付近の土地を提供したい意向であったが、仏教団体やその他の筋からの反対が強く、1年近い交渉の末、破談に終わる。 6年9月27日(日曜)、結核患者のための「有明静養舎ベタニアの家」が落成す。3年後の9月夏に増築されて、収容力を増す。6年10月10日、ナーベルフェルト神父(Naberfeld,大正15年来日)、新発田町三ノ丸の多川氏定(現、中央町1丁目6-15長谷川末次郎氏宅)2階を借りて、新発田教会を創立す。11月より小学校教師の甲斐孝氏が神父の布教活動を助け、青年たちの間に急速にひろまる。翌年4月から品田聖栄氏も、神父と一緒に住んで仕事を手伝う。
 6年12月7日、チェスカ神父からの勧めに基づき、白勢シゲルさん(現、聖霊会シスター・アグネス)と田村キヨノさんとが、移築された新潟の旧バラック教会で、ベビー・ホームを創立す。初めこれは、2,3才ぐらいまでの幼児を昼間だけあずかる託児所のようなもので、翌年にはお手伝いさんを3名雇う。
 7年9月、月刊新発田教会文芸誌「ほざんな」(30~40ページのガリバン刷り) 発刊。
 8年6月1日、新発田教会は、外ケ輪裏106の大きな一軒家へ引っ越す。
 8年7月新潟教会内に若い女性だけの小百合会発足。会員約30名。同じころ、夷教会主任のポンツェレト神父(Ponzelet, 昭和2年来日)、夷教会堂の塔を修築す。
 9年7月1日、葛塚町常盤町の信者陸喜美一(くがきみいち)氏宅に近い借家で、新発田からの巡回教会(昭和13年廃止)が設立される。
 9年11月3日、月刊新潟教会報「双塔」が活字印刷8ページで発刊される。
 9年12月、聖心愛子会がベビー・ホームの仕事を担当し、翌年5月8日、現存する2階建て園舎120坪を完成す。収容定員30名。
 10年1月、ライツ神父(Reitz, 昭和5年来日)、もと軍人分会副会長永井豊氏の協力を得て、夷愛国カトリック少年団(ボーイ・スカウト)を創立す。日本におけるカトリックのボーイ・スカウトとしては、仙台(昭和8年8月)、神戸(9年3月)、名古屋(9年7月)に次いで第4番目に古い少年団である。
 10年8月9日、2階建て延べ150坪余の聖ヴィアンネー館落成す。神学生と伝道士の養成所として使用される。
 12年4月3日、新発田三ノ丸260に新築された司祭館兼聖堂の祝別式。
 13年3月末、加治村の信者高沢富次郎氏、ナーベルフェルト神父やライツ神父の指導を受けて、加治少年団を結成す。団員は通常十数名、多い時には一時的に40名を記録す。
 16年7月、有明静養舎ベタニアの家の経営が、聖心愛子会に継承される。戦後新潟聖園病院に発展す。
 17年5月31日朝、新発田教会主任フィンゲル神父(昭和13年11月以来)、コックの内山シヅさんと看護婦の鶴巻栄さんにより、寝室で死体となって発見される。死因は心臓病。
 17年11月、柿崎鉄郎神父が、相川教会主任となる。神父は、戦時戦後のむずかしい時期に佐渡および新潟で活躍し、26年秋からワシントン大学で学んだ後、そのままアメリカで司牧活動に従事す。
 20年10月下旬、シュタウヴ神父(Staub, 昭和12年来日)、新発田教会に来任し、まもなく小林純子伝道婦の協力を得て、数多くの若い改宗者を生み出す。同じころ新潟でも、ライニルケンス神父が、助任のギュツロー、グドルフ両神父にささえられて、堅実に改宗者の増加を図る。       21年春、三森神父、新潟から村松町へ出張し、聖公会から改宗した佐藤久吾氏宅で、教理研究会を開く。
 23年4月、新潟市西大畑通りに聖園幼稚園開設される。
 23年10月、ホンナッケル神父、新潟教区長代理に就任し、ギュツロー神父が、新潟教会主任となる。このころから新潟およびその周辺諸町村の改宗者数は非常に多くなり、この改宗ブームは、ホンナッケル神父が教会主任を兼任していた期間中(24年10月~28年5月)、少しも衰えずに続く。
 23年11月、新発田にコンセット1棟の信者集会所が建ち、翌24年1月3日、小さいながら聖母洋裁
学院が開設される。主任のシュタウヴ神父は、 このころから聖歌隊の指導に力を入れる。同じころ、ホンナッケル神父も、村松に片倉製紙工場跡の土地約200坪を購入し、いわゆる「カマボコ聖堂」を建造す。こうして誕生した新潟からの巡回教会村松には、28年ごろまで多くの改宗者が出た。

 24年7月31日、新発田教会に、コンセット2棟を十字型に組み合わせて造った「カマボコ聖堂」
が建ち、視察のために来日していた神言会総長グロース・カッペンベルグ神父により祝別され
る。旧聖堂は、聖母洋裁学校の教室として使用される。 24年8月、教区長代理のホンナッケル
神父、新津に神言会経営の中学、高校、大学からなる総合学園創立の構想を発表する。それ
によると、神言会では、すでに新潟市白山浦埋立地に4,000 坪を買収してあるが、学園の敷地
としては、1万坪以上を必要とするので、新津町山谷の元石川島工場あき地2万坪を、400万円
で買収する交渉を進めているとのこと。しかし、その後交渉は不成立に終わる。

聖腕巡歴

 聖フランシスコ・ザビエルの右腕は 1949年ローマから日本に運ばれ、渡来400年記念巡礼が
行われた。全国をまわり、7月8日、仙台・山形 ・秋田を経て新潟入り、10日最後の式典が行わ
れた。

 24年10月、沼垂町の野間善弥氏の好意によって元食糧公団の土蔵40塚が譲渡される。この建物は25年6月に改築され、沼垂巡回教会として祝別される。沼垂では、22年夏ごろに東竜ヶ島の信田録男氏宅で開かれたグドルフ神父による教理研究会のあとを受けて、このころからは、ホンナッケル神父、ローテル神父(Lother, 昭和8年来日)、 山口良三伝道士、鶴巻彰伝道士による教理研究会が盛んになった。
 25年1月、聖ヴィアンネー館で、ホンナッケル神父を学院長とするカテキスタ新潟学院が設立される。本科生は、神言会神父や新潟大学教授の教える神学、心理学、社会学 などの講義を3か年で100単位取得することになっていた。
 25年8月27日、新発田市立図書館で、シュタウヴ神父の指揮する新発田教会聖歌隊(この年新潟県下の純粋音楽コンクールで第2位を取得)が「バッハ2百年記念音楽会」を開催し、会場は 満員となる。当日の純益1万5千円は、市の民生課へ寄付される。新発田教会では、翌28日、 2階建て延べ100坪の新司祭館落成が祝われる。このころ、教区本部から、南山学園第3高校建 設工事を、26年春から新津で着工する予定であ ることが公表され、新津町民は喜んだが、種々 の事情でこの計画も廃案になる。 26年9月、カテキスタ新潟学院に半年間コースの速成科が開設される。28年春までに速成科卒業 生は38名、本科卒業生は10名を数える。
 26年11月3日、新潟市沼垂上四ノ丁(栗ノ木川のほとり)に新築された沼垂教会献堂式。
 26年12月、新津市日宝町に民家を購入して新潟からの巡回教会が 設立され、小林五月伝道婦が常住する。新津には、信者の大森正氏が昭和12年から国鉄新津工場に勤務していたので、新潟からの神父の巡回も長年続けられ ていたが、23年ごろからは、大森氏の世話で、個人宅での教理研究会も開かれていた。 27年7月、新発田教会の旧司祭館兼聖堂が増改築されてできた2 階建て洋裁学校舎に、名古屋カテキスタ学院の分院が設置される。翌28年3月、教会主任が変わると廃止される。
 27年11月1日、新潟大聖堂25周年記念式が教皇公使フォン・フェルステンベルク大司教を迎えて盛大に祝われる。県知事、市長、各界名士も多数列席する。 28年5月24日 (聖霊降臨大祝日)、野田教区長就任。 新教区長は、カテキスタ新潟学院を廃止して、聖ヴィアンネー館を教区の小神学校にす。(追記 P.46を参照) 29年4月、新発田教会聖母幼稚園開設。
 31年5月、新しい布教体制の導入により、新発田教会主任ノッツォン神父(Nocon, 昭和25年中国から来日)が新発田宣教地区長に任命される。
 33年6月、月刊『新潟教区報」創刊される。発行兼編集人は鎌田耕一郎神父で、初期数年間には、読みごたえのある論説や研究が多く掲載されている。
 34年8月16日、従来の教会敷地が新潟新発田間の新しい国道建設用地となったため、新潟駅の近くに新築された沼垂教会祝別される。35年9月に町名が変更されて、花園教会と呼ばれるようになる。
 34年9月10日、新潟外青山浦山町に聖心愛子会経営の聖園天使園開設される。
 35年5月、ノッツォン神父の管区長就任に伴い、新発田教会主任となったヴォルテリング神父(Woltering, 昭和28年中国から来日)が、新発田宣教地区長に任命される。
 35年9月4日、亀田町西町浦の亀田教会祝別式。
 35年11月、新潟聖園病院の司祭館完成。青山教会の始まり。
 36年5月、亀田町西町浦の亀田カトリック幼稚園が、園舎の完工をまたずに、2名の保母と約20名の園児とで開園す。同年4月に司祭に叙階された野田実神父が、発足したばかりの亀田教会における司牧、布教を担当し、同時に鎌田神父のあとを受けて『新潟教区報』の発行兼編集人となる。
  36年10月11日、野田教区長永眠す。葬儀は、14日新潟大聖堂でエンリッチ教皇公使、長江司教、松岡教区長臨席のもとに行なわれる。
 37年5月5日、新潟教区は司教区に昇格し、6月14日に伊藤司教が、荒井、長江両司教に補佐された教皇公使エンリッチ大司教から祝聖される。
 37年8月12日、新津教会の司祭館兼聖堂が落成す。
 37年11月5日、相川海星愛児園の増改築工事落成す。相川では、以前に伝道士として活動した高橋伝一氏が、教会の維持発展のために尽くしている。
 38年8月、ナミュール・ノートルダム修道女会が、新潟市から提供された、同市五十嵐浜の旧帝国石油所有地約2万坪の上に、新潟清心女子園高校校舎の建設を始める。
 39年4月、新潟清心女子高校と新津市日宝町の新津教会付属幼稚園開設される。
 39年6月16日、新潟大地震で、新潟教会の諸建造物も種々の損害をこうむる。
 39年8月21日、カーニャ教皇大使 を迎え、新潟清心女子高校の3階建て鉄筋コンクリート校舎約1,140坪の落成式が挙行される。
 40年1月、新潟教会信者ホールの道路に面した部分に、2階建て約22坪の書店、図書室、集会場、学習教室が新設され、聖パウロ修道女会が経営を担当す。同会は、すでに38年9月から、小林デパートでセント・ポール・コーナーを経営していた。但し同会修道女は、40年9月10日に、全員新潟から引き上げる。
 40年4月、花園教会に聖ラファエル幼稚園開設される。
 40年6月20日 (聖体の祝日後の日曜日)、 新潟大地震で損害の出た大聖堂の復興記念と して、伊藤司教の発案により、故チェスカ教区長がドイツから取り寄せた2メートル大のキリスト聖心像を、大聖堂正面の屋上に安置す。この式には数名のプロテスタント牧師も参列した。
 40年11月、新潟市五十嵐一の町で、ノートルダム幼稚園開設される。正八角形の美しい園舎は、柏崎教会主任バッスィ神父(Bassi)の設計。寺尾教会のはじまり。
 41年7月、水害に悩む北蒲原諸地方に救援物資を送るため、司教をはじめ、諸神父、神学生、SVP会員ら大いに活躍す。
 41年11月3日、有名なレーモンド氏の設計になる美しい新発田教会聖堂ならびに2階建て司祭館が、伊藤司教により祝別される。施工は、当教会所属信者渡辺清氏を社長とする新発田建設KKで、この建設会社は、昭和30年ごろから、新潟教区内の数多くの聖堂、司祭館、幼稚園舎などの建設に大きな貢献をなしている。
 44年4月、白根にカトリック幼稚園開設される。白根教会のはじまり。
 44年12月、亀田町船戸山の約600坪の土地に聖堂兼司祭館と幼稚園が新築され、亀田教会が移転す。旧幼稚園舎では、マリアの宣教者フランシスコ会修道女が、45年4月より平和の園保育園を経営す。
 45年12月15日、聖心愛子会経営の新潟聖園病院の新しい鉄筋コンクリート4階建て本館が落成す。
 46年4月18日、相川教会の新聖堂23坪が、伊藤司教により祝別される。
 47年5月7日、新津教会新聖堂の建築始まる。
一追記一
 「28年6月29日―聖ペトロ・パウロ両使徒の祝日を期して、野田教区長は新潟教会を教会法に基づく正式の準小教区(Quasi – paroecia)に設定し、三森泰三師をその主任司祭に任命した。佐渡教会を司牧していた高橋繁二師は、新潟教会に移り助任司祭を兼務することになった。三森師は又教区長代理に任命された。ここに長年に亘って新潟 教区、そして新潟教会を司牧して来た神言会は事実上邦人聖職者の手にすべてを譲渡し、今後地域的に司牧宣教を担当し、教区に協力することになった。
 同時に信濃川以東は沼垂教会として新潟教会から独立し、臨時主任司祭にホンナッケ ル師が就任した。同師は同年八月にカテキスタの一団と一緒に多治見教会に移転し、ノッオン師が沼垂教会の主任司祭となった。
 1971年(昭.46) 1月1日―青山、寺尾の2教会が分かれ、それぞれ独立の小教区とな る。
(編集部付記)